「日曜日なのに礼拝?」いえいえ「日曜日だからこそ礼拝」なんです
「せっかくのお休みの日なのに教会に行くの?」なんて聞かれる方もおられますが、元々、キリスト教信仰を土台とする欧米諸国では「日曜日は礼拝の日。だからお仕事もお休みにします」という考え方で1週間を数えてきました。その西洋歴である7曜を明治時代に入ってから日本も取り入れましたので日曜日「なのに」ではなく「だから」こそこんにちの日本の教会でも礼拝は日曜日に行われているんです。
ではなぜ日曜日の朝に礼拝が行われるようになったのかというと、それには深い深いわけがあるのです。その理由をここでは簡単に御紹介しますね。
まず、日曜日の朝というのは教会にとって大きな意味があります。それは「イエス・キリストが復活したのが日曜日の朝」だからです。
「復活(生き返る)」というからにはその前に「死んでいる」という状態があります。キリスト教会には十字架がかかげられていますよね。それはイエス・キリストが十字架で死なれたという事を記念して覚えるからです。
では、なぜイエス・キリストが重罪人を処刑するための十字架で死ななければならなかったのかということになりますが、ここに、聖書が語る「福音の約束」があるのです。
聖書は次のように教えています。
全ての存在の造り主が主なる神さまただ御一方である事
この御方が愛する存在として人を生みだされた事
人は神の愛を断ち切って生きる存在となってしまった事
いのちである神との断絶(罪)により、人は罪の支配に在って「死と滅び」に向かう存在となってしまった事
しかし神は愛する子である「人」が永遠の死と滅びに引き渡される事を良しとされなかった事
罪の支配を打ち破るために御自身の存在(三位一体)を引き裂いて御子キリストを全ての罪の代価として世に降し、罪人の死と滅びの象徴である十字架において死なれた事
キリストのいのちを飲み込めなかった「死」はこの方を吐き出し、この方のいのちを持つ者はもはや飲み込む事が出来ないと敗北宣言をした事
三日目に死に勝利されて復活されたキリストのいのちは、神さまとの交わりに結ばれる全ての人に、誰にでも優劣なく与えられる事
全歴史は、やがて罪の支配の中で滅びに向かうが、神御自身の御手で新しく造り変えられ、本を閉じるように終わりの時を迎え、永遠の神の御支配の中(天国)に、神との交わりに結ばれた者は移される事
聖書全体を通して語られている神さまの思いは「愛する我が子よ。帰っておいで!」という、親が子を思うような、いえその思いの根源である愛の招きなのです。
死と滅びに向かう存在となってしまった人類を、再び、いのちの交わりに結ばせるために差し出された神さまの愛の手、それが十字架に現された神さまの愛の招きであり、死を打ち破ったキリストの圧倒的な勝利の証しである「復活」です。
この「神の愛」を覚え「キリストの復活」を記念するからこそ、教会の礼拝は毎週の初めの朝、日曜日の朝に行われ続けているのです。
まさに「新しい一週間」という日々を、神の愛の内に在る新しいいのち、復活のいのちを受けて歩み出す日、それが日曜日・教会の礼拝の意味なのです。
あなたも教会の礼拝から、新しい一週間を歩み始めてみませんか?どうぞ日曜日にはお近くのキリスト教会の礼拝へお出かけ下さい。
キリスト教会ではない『教会』(キリスト教の異端とされる団体など)もありますので、正統なキリスト教会をお探しの場合は十分お気をつけ下さい。(異端について→)