2014.4.27 『迷ってばっかり』
聖書箇所/ルカによる福音書9章28~45節 メッセンジャー:川内裕子師
数日前にはイエスを「メシア(救い主)」と告白したペトロ。けれどもイエスがモーセとエリヤと共にイエスの最期について話し合っているところを見たときには、何を言っているか分からず言葉を口走ります。イエスがご自身の死を予告した時は、意味が隠されていたペトロをはじめとする弟子たちは怖くてその意味を尋ねる事ができませんでした。イエスはそんな人々に深い愛を注がれ、人々を離れて世を去ることを悲しまれます。状況に振り回されて迷ってばっかりの私たち。自分の口から発した言葉の意味を真実に理解することも出来ない私たちです。ご自身の命を投げ出し、私たちの罪を購って下さったのが「救い主」イエスです。誰がそんな救い主を想像したでしょうか。いつも主のみあとに従って歩むことができますように。
2014.4.20 『わたしにとって』
聖書箇所/ルカによる福音書9章18~27節 メッセンジャー:川内裕子師
イエスは弟子たちに尋ねます。「人々は私のことを何者と言っているか」。様々応える弟子達にさらに尋ねます。「あなた方は私を誰だと思うか」。「あなたは神からのメシア(救い主)です」。と答えた弟子達も、イエスが捕えられた時には逃げ去ってしまいました。自分の都合の良いようにイエスを解釈し、自分の都合に合わせて勝手に自分の荷物をこさえてかついであえいでしまう私達。そんな私達に、主はいつも問いかけて下さいます。「あなたは私を誰だと思っているか」。私達は「あなたこそメシア、私を救って下さる方です」と信仰を告白しましょう。その主と共に、主が備えて下さる自分の十字架を負って従ってゆきましょう。他の誰かにではなく、今「私」「あなた」一人ひとりに主は問いかけて下さいます。
2014.4.13 『いただきます』
聖書箇所/ルカによる福音書9章10~17節 メッセンジャー:川内裕子師
「パン五つと魚二匹しかない」と言う弟子たちに対して、イエスはその食べ物を感謝し、手づから分けて弟子たちに配らせます。全ての人は満腹になり、なお余りました。人間である私たちには「不可能だ」と諦めますが、神は不可能とはされません。イエスはご自身の身を裂き、御自身の血を流して私たちの罪を購って下さいました。「取って食べなさい」と、私たちは皆、イエスから命のパンを差し出されています。イエスの十字架は私たち全ての人々の購いのためでした。その救いを、自分のものとして受け入れることができますように。
2014.4.6 『まさかの祈り』
聖書箇所/ルカによる福音書22章24~34節 メッセンジャー:川内裕子師
イエスは捕えられる前、弟子たちと共に最後の晩餐をとられます。その席でご自身を裏切る者がこの中にいることを告げられると、弟子たちの中で一体誰がそんなことを、という議論が起こりました。それが乗じて一番偉いのは誰か、と議論が始まります。そんな弟子たちにイエスは一番偉い者はかえって仕える者となりなさいと教えるのでした。自分はイエスに死んでも従う、と意気揚々のペトロに、イエスは思いがけない言葉をかけます。ペトロには必ず倒れてしまう時が来ると。しかしその時にペトロの信仰がなくならないようにと。自らの限界にぶつかり、意気消沈し、倒れ伏してしまう私たち。けれどもイエスは私たちの挫折も、それを乗り越えた後に仲間を励ますことが出来る働きをも見通し、信頼して祈って下さいます。転ばぬ先の、まさかの祈り。
2014.3.30 『選択』
聖書箇所/申命記30:15~20 メッセンジャー:川内活也師
私達はそれぞれが選択して歩んできた結果としての「今」を生きており、また「今」の選択がこれから先の人生を建て上げる/この「選択」という分岐点はある時は多くの道がありある時は二択かも知れないが、とにかく、選んだ1つの道しか「現実の歩み」とならない。立ち帰ってやり直す事は出来ない分岐点なのだ/私達の前には「いのちと幸い」と「死と災い」の道がある(15節)。それは見つめれば見つめるほどに「広い道・大きな門」に見えてくるという特徴がある。だが、見つめている方向がいのちに至る道か死と滅びに向かうものかを人は知り得ない/だから主は正しい道を見出すために声をかけて下さるのだ。主の御言葉に聞き従うならそちらに目を向けられる。その道を見つめるなら「広い道・大きな門」だと気づくだろう/選択を誤らない選択、それは「いのちと幸いの道」を知っておられる主の御言葉を聞く事なのだ
2014.3.23 『子として生まれ』
聖書箇所/イザヤ49:13~21 メッセンジャー:川内活也師
先週3/20は我が家の特別な日。結婚記念日と同時に長女の誕生記念日/少年時代の終わり19歳のクリスマスまで生きる日々を悲観し・見限り・絶望の中で滅びへと向かうだけだった自分がこんな「楽しい日々」を過ごせるとは思いもよらなかった/幼少から「聞いていた福音」。でもそれを受け取っていないまま歩む日々は空しい日々だった/しかし、神が「子」として愛して生み出された存在であると自分の意味を知った時、全ての「空の器」が一気に満たされ溢れた/十字架に現された神の愛、「贖いの御業」が「僕の為」だったと知った時、「空しく意味の無い」人生は180度変わって「満たされた価値ある日々」となった/神の愛の内に生まれた「子」であるからこそ、主は呼び求める魂の声を聞いて下さる/共に歩む親は我が子を見はなさず、見捨てず、忘れない。ましてや主はその御手にしっかりと私達一人一人の名を刻みつけられているのだから
2014.3.16 『旅程確認』
聖書箇所/エレミヤ6:16~21 メッセンジャー:川内活也師
「一生懸命頑張る」「しっかりとやる」。それは大切な事だがその行動だけで必ず良いという事はない/目標・目的があっても自分が進んでいる道、方向が正しく無ければそこに辿り着けない。闇雲に「頑張って」いても道を外れ、方向を誤っていれば「頑張るほどに」的外れな人生・日々の歩みとなる/道を誤りながらも歩き続けている時、困った事にその過ちに気づかないもの。一旦立ち止り、方向を確かめる時間が必要/活動を中断する事は時には苦渋の決断を要する。しかし、進んでいる道が正しいか否かを確認するためには絶対に必要な時間なのだ/歩き続ける日常の旅の歩みを一旦止め、四つ辻に立って天の地図を開いて主と確認する脱日常の時「礼拝」/手の業を休め、その歩みを休めて導きの御言葉に聞く旅程確認の安息日として、霊と真を持ちて主を礼拝しよう。
2014.3.9 『人の為』
聖書箇所/コロサイ3:17~25 メッセンジャー:川内活也師
「人」の「為」を1文字にすると偽、「偽り」という漢字になる/私達は日々の暮らしの中で「誰かの為」にと働く時がある。それが「偽りの働き」か「愛からの行動か」は<代償を相手に要求しているかどうか>で量る事が出来る/自分の願った報いを相手から受けられなかった時に怒りや悲しみの感情、または何らかの「制裁」を相手に向けるなら、その「相手の為に」と行った業は結局「自分の為=自分が相手から報酬を得るため」の偽りの愛の業だと知る/「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように」(23節)と聖書は語る。主から「報い」を得るためではない。すでに受けた「神の恵み=十字架に現された愛」への応答が「あなた自身のようにあなたの隣人を愛せよ」という人と人の交わりの関係を結ぶ完全な帯(14節)なのである
2014.3.2 『今そこにあるパン』
聖書箇所/マタイ4:1~4 メッセンジャー:川内活也師
荒野での試みに立つイエス様に、サタンは「空腹なら石をパンにすればいい。力を用いればいい」と誘うがイエス様は人を真に活かすのは神の御言葉であると答えてこれを退けた/私達は「神の御言葉」を受けて生きる。その「いのちのパン」を食す時、世に在って与えられている「パン(神からの恵みとしての全てのモノ・賜物)」を正しく用いる者とされる/今、それぞれに委ねられている「パン」を正しく用いる時、私達は真に満ち足りる者となる/私達が固持し続けるべきは、我が手にあるパンではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉、主の御心に聞き、従う時に満ち足らせて下さる「いのちのパン」/自分を生かすために虚しき「石」をパンに変えても、それは口に甘くても腹の中で「石」となり、人を満たす事はない。御言葉に従ってパンを用いる時、真の満たしを得るのである
2014.2.23 『バラバ』
聖書箇所/ヨハネ18:37~40 メッセンジャー:サム・ヤービー師
バラバについての記録はこの「不当裁判の記事」以外にはない。彼がは強盗で人殺しの罪で死刑を待つ身であった/この裁判で裁判長であったピラト。彼はイエス様が無罪である事を知りながら、自分自身の「義の判定」を持ちながら群衆にバラバかイエスのどちらを釈放すべきかを投げかけた。群衆は自分達の社会に無害であり、それどころか正しい行いを示したイエス様ではなく、自分達にとって害悪を加えたバラバの釈放を求め、ピラトはその声を聞きいれた/義では無く不義を選択する「罪の性質」。冷静な正しい判断とは思えない狂気。この罪の中に世界は在る/義を縛り不義を自由にする事を選ぶ人々。聖書はそのような狂気に捕らわれている指導者・群衆のために執り成し祈る事、義なる主の御言葉を宣べ伝える事をクリスチャンの使命であると語る/バラバとキリスト、どちらを選ぶ事が正しい選択か、よく考えよう。
2014.2.16 『行っておいで』
聖書箇所/ルカによる福音書9章1~9節 メッセンジャー:川内裕子師
12人の弟子たちを各地に遣わそうとするにあたり、イエスは弟子たちに、旅には何も持って行ってはならないと言いました。当時の旅人なら、当然持っていると思われる杖や袋などさえ。旅に出かけるなら、旅先で困らないように荷造りをし、それを頼りに駆使しながら過ごすのではないのでしょうか。何も持たずに出かけた弟子たちは、イエスのみを頼りにし、それぞれの場へと出かけて行きました。他に頼るもののない彼らは、真剣にイエスを近く感じながら旅をし、与えられた働きを担ったことでしょう。村から村へと巡り歩きながらいたるところで福音を告げ、病気を癒したと書かれています。彼らの真実の主への信頼を人々は信じました。日々主に遣わされていく私たち。他の何ものにもよらず、主に従いつつ歩みましょう。
2014.2.9 『ただここに』
聖書箇所/ルカによる福音書8章40~56節 メッセンジャー:川内裕子師
イエスがヤイロの娘をいやすために向かう道中、群衆の中に12年間出血の止まらない女性がいました。全財産を使い果たしても誰からも治してもらえないこの女性が一縷の望みを持ってイエスの服の房に触れた時、イエスから力は出てゆき、女性はたちまち癒されました。誰が自分に触れたのか、と強いて問い続けるイエス。出血のある間、けがれにあるとされていた当時、多くの人々のただ中にいる、ということが女性にとってどんなに勇気のいることであったか。そしてそのことを公にすることはさらに覚悟のいることでした。その決死の思いで告白した女性に、イエスは「娘よ」と家族の呼びかけをし、救いの宣言をします。ただここにいることの難しさ、しかし主イエスは温かい交わりの宣言とともに、主に信頼して声を上げることの大切さを示します。
2014.2.2 『ことごとく語る』
聖書箇所/ルカによる福音書8章26~39節 メッセンジャー:川内裕子師
イエスがゲラサの地で出会ったのは、多くの悪霊に取り付かれた男性でした。イエスに近づきながらも、私に構わないでくれ、と叫ぶ男性。私たちもまた、鎖につながれ、束縛を受け、本来の自分がいかようであるのかを見失う中に生きる時があります。追い出された悪霊が豚の群れに入って湖になだれ込んだように、イエスとの出会いによって本来の自分を取り戻すには大きな犠牲を伴うかもしれません。イエスはこの男性に、家に帰ってわが身に起こったことをことごとく語るよう派遣しました。男性が遣わされたのは、以前の自分しか知らない人たち、一連の出来事に恐れをなす人々の中です。救い主と出会いにより、多くのしばりから解き放たれて自分を取り戻した男性は、神がなさった業をことごとく語りました。私たちもまたそのように。
2014.1.26 『立ちて歩め』
聖書箇所/ヨハネ5:1~17 メッセンジャー:川内活也師
「よくなりたいか?」というイエスさまの問いかけに38年間病で床についていた男は自分が池に入れない理由で答えた/神の招きは単純明快である。しかし、その招きに人は自分が立てない理由を語る。これが「罪=神との断絶」の姿。理由は聞かれていない。そこに止まっていたいのか立って歩みたいのか?/神は立って歩みたいと願う者に立ちて歩めと語られる。床をたたみ立ち上がれと。その招きに従う時、この男が「癒し」を受けたように、誰でも床をたたんで立ち上がり歩み出せる/理由は道々聞いて下さる。その傷その罪は、主がすでに十字架の死をもって癒し・購われていることを道々知るだろう/まず、主の招きに応えよう。「よくなりたいか?」という招きに、理由をつけて立ち上がらない限り、新しい景色を見る事は出来ないのだから
2014.1.19『我に帰るために』
聖書箇所/マルコ5:1~20 メッセンジャー:川内活也師
ガリラヤ湖を挟んだ対岸はユダヤ社会と違う異邦人社会であった。福音の宣教はユダヤ人のためだけでなくイスラエルをひとつの「型」として全世界・全人類への招きである事をイエスさまは示された/ゲラサ人の地に着き多くの悪霊(レギオン)に人生を支配されている男と出会ったイエスさまは彼から悪霊を追い出された/「苦しめないで」と懇願するレギオンの言葉。「助けて欲しい。でも苦しみたくない」という願望は罪の支配下に在る姿。私たち一人一人の姿/1人の人の救いのために失われたおびただしい数の豚の命。凄惨な状況。この代価に十字架の贖いの予型を見る/いのちを得させるために流された十字架の血。人が在るべき我に帰るための「苦しみ」を一身に負われた主/救いを得させるために払われた代価を見る時どのように応答するだろうか?/「世から離れてキリストに生きる」事で無く在るべき我に帰って「世のただ中で」この救いの御業を証しする応答へ主は招かれる
2014.1.12 『希望の素になる絶望』
聖書箇所/Ⅰコリント15:50~58 メッセンジャー:川内活也師
昨年12月5日に南アフリカ共和国第8代大統領のネルソン・マンデラ氏が召された/メソジスト派のクリスチャンであった彼は反アパルトヘイトを進め、今の南ア人種平等社会を構築した立役者としてノーベル平和賞等を受賞している。それは46歳から73歳までの27年間を政治犯として獄中生活を送った後の事だ/最も力有る時期を獄中で費やす。それは絶望的な状況である/ヤコブの子ヨセフも獄中につながれた。モーセは40年間ミデヤンの地に隠れ住んだ。絶望的な状況。しかしその絶望の地中で希望の種は育ち続け、時満ちて実を結ぶのである/人の価値観では非合理的・非効率的な「無駄」と思える絶望的状況も、主は希望の素としてそれを用いられる/主に在って全ての労苦は無駄となることはないのだ(Ⅰコリント15:58)。主に在る時「絶望」も「希望」の種を芽生えさせる畑となる
2014.1.5 『転ばぬ先の杖』
聖書箇所/ミカ6:6~8 メッセンジャー:川内活也師
2014年という新しい年の歩みが始まった/私達は日々の歩みにおいて時に後悔し時に反省し時に思いを新たにする。一年の始まりという日は、ある意味で仕切り直しに丁度良い/しかし、振り返れば同じ過ちの繰り返しを見る。何故か?折れた杖を以前と同じ素材で作れば同じように折れるもの。折れない素材の杖を持たなければ同じ結果が生じるように、繰り返される自己反省だけでは同じところで転ぶものだ/不完全な自己基準の杖ではなく、完全なる神の基準である杖は折れる事がない/「我の求める道」を杖として寄りかかれば折れて転ぶ。しかし「主の御心を求める道」を杖とするならどれだけ寄りかかっても折れる事はない/転ばぬ先についている杖。その杖が完全でないなら私達は再び転んでしまう。新たな日々の歩みに頼りとする杖、完全な杖である主の御言葉に依り頼みつつ、この年を共に歩み出そう!
2013.12.29 『あなたは誰?』
聖書箇所/ルカによる福音書 メッセンジャー:川内裕子師
弟子たちと共にガリラヤ湖にこぎ出したイエスは、舟の中で眠ってしまいます。ところが、突風が吹き降ろし舟は揺れ、水をかぶる中、弟子たちはイエスを起こします。「先生、おぼれそうです!」。波風を叱っておさめるイエスに弟子たちは驚きます。一体この方は何者だろう。イエスのことは、今まで従ってきて、知っているつもりだった。けれども神の創られたこの世界を従わせるこの方はどなたなのか。壁に突き当たるたび叫び求める私たち。主が思いもかけない道を開いて下さるたび、私たちは「この方は一体どんな方なのか」と主なる神様に新たな驚きを覚えます。この年も何度となくうなだれ、叫ぶ日々の中に、主の臨在がありました。来る年、「向こう岸に渡ろう」との主イエスのいざないに伴われ、どんなときにも大丈夫と確信を頂いて歩みましょう。
2013.12.22 『わたしの家族』
聖書箇所/ルカによる福音書8章17~21節 メッセンジャー:川内裕子師
イエスのところに母や兄弟たちがやって来ます。ところがイエスに従う群衆がいっぱいで、近づくことができません。知らせを受けたイエスの言葉は、母や兄弟達にとって冷たいと思えるような言葉でした。しかし翻ってこの言葉を受け取る時、血肉によらず、神の言葉を聞いて行う人がイエスの家族なのだというこの言葉は、私達にとって大きな慰めです。神の言葉はイエスという肉になりました。イエス自身を知り、従う者は家族であるとイエスは語ります。クリスマスを迎えるこの時、救い主が私達一人一人を家族として下さり、私達と共に歩み、背負い、励まして下さる恵みを心から味わいましょう。クリスマス、おめでとうございます。
2013.12.15 『灯(ともしび)は輝く』
聖書箇所/ルカによる福音書8章16~18節 メッセンジャー:川内裕子師
イエスはともし火のたとえを語ります。灯は隠したり、下に置いたりせず、人々が明かりが見えるように、周りが見えるように上に置きます。神様は世界を創造したその初めに「光あれ」と光を創造されました。世界を明るみに引き出して下さったのです。そしてイエス・キリストは「世の光」としてこの世に来て下さいました。罪の世にあって、私たちがイエス・キリストなる光に照らされた世を見るためです。全てのことはその光によって明らかにされます。私たちは同じ世界を、どのように聞くのか、どのように見るのか、問われています。創造主なる神が光としてこの世に来て下さった、その輝くともし火によって私たちは世を見てゆきましよう。光なるキリストの歩みをたどる時、おのずと私たちの歩むべき道も明らかになってゆきます。
2013.12.8 『聞く耳のある者は』
聖書箇所/ルカによる福音書8章4~15節 メッセンジャー:川内裕子師
大勢の群衆に種まきのたとえをするイエス。道端に落ち、あるいは石地に、茨の中に、そしてよい地に落ちた種。イエスは「種は神の言葉」だと語ります。神の言葉は私たちのうちで実を結びます。時には道端や石地や茨の中に落ちた種のように、芽を出し育って実を結ぶまでに至らないこともあるかもしれません。けれどもイエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた言葉に心開かれ、神の言葉の種を自らの内に育てていきましょう。ヨハネ福音書には、言葉は肉体となってこの世に来たことが語られます。すなわち神さまの言葉は主イエスによって肉体となりました。自らの内に頂いた御言葉を自分の事として受け取ることで、私たちの生き方として結実していきます。何が語られ何が起こっているか、しっかりと見聞きすることができますように。
2013.11.24 『整えられた地に』
聖書箇所/詩編42:1~5 メッセンジャー:川内活也師
ダビデが我が子アブシャロムの反乱によってエルサレムを追われた時にヘルモン山付近で唄われた詩とされる/苦しみと悲しみの「涙」を食物とする日々。しかし、その「涙」がダビデの「信仰の糧」とされた/彼の涙は主への全たき信仰の畑に蒔かれる種/「一粒の麦、地に落ちて死なずば多くの実を得ることあたわじ」(ヨハネ12:24)/ 一粒の種それは私達にとって失いたくない命かもしれない。捨てたくなく夢、願い、希望、幸せかもしれない。しかしその「種」が主の整えられた良き地に委ねられるなら、神への全たき信仰の中で明け渡す時それは多くの実を結ぶ/それを蒔く時、自らの手から主の御手に明け渡す時、不安や恐れ、悲しみや苦労が伴い涙する日もあるだろう。しかし御言葉は永遠の神の約束を与える。信仰をもって主の地に蒔かれた種は、必ず、30倍60倍100倍の実を結び、私達をその実を喜びさけびながら収穫する日がくると/私達が「整えられた地に蒔く種」は決して無駄に滅びる事は無いのである(Ⅰコリント15:58)
2013.12.1 『持てるものささげ』
聖書箇所/ルカによる福音書8章1~3節 メッセンジャー:川内裕子師
今日の聖書箇所には、イエスに従って一緒に旅をした女性たちのことが記されています。12人の男弟子たちがその能力や出自によらず選ばれ従ったのと同じく、これらの女性たちもそれぞれユニークなイエスとの出会いがあり、イエスに従って歩んだのです。身分や立場も違う、それぞれがイエスとかけがえのない出会いをしたのでした。私たちもまた主イエスと独自の出会いをしています。一人ひとり皆違う出会いなのです。ですから語る証しもそれぞれ違いますし、働きも違います。けれど主なる神さまが私たちを愛して下さり、イエス様をキリスト(救い主)としてこの世に送って下さった、この事実は同じなのです。私たちがどのようなものであるかに関わらず、神様が私たちを愛して下さいました。それぞれがもてるものささげ主を証ししましょう。
2013.11.17 『道』
聖書箇所/出エジプト14:6~14 メッセンジャー:川内活也師
苦役と虐げの日々であったエジプトの生活から解放されたイスラエルの民。しかし喜びも束の間に大きな「不安」が迫る/背後にはエジプト軍、目の前は大海に阻まれ、行く事も戻る事も出来ない現実を前に彼らの不安は頂点に達し、ついには神への不信のつぶやきをモーセに対してぶつけてしまう/「道」を見失うのは未信者も信仰者も同じ。後に戻れず先にも進めない途上で不安に支配され嘆き・つぶやく時もある/しかし神の約束を忘れてはならない。主の約束は「将来と希望を与えるもの」。不可能と見える目の前の大海のただ中に「道」を造られる方が私達を導き、共に歩んで下さっているのだ/目の前に見える「道」は途絶えたと思える時にも、主の導きを信じ歩むとき神は約束の将来と希望の道を開き、導かれる/追いかける「罪」の支配に恐れる者として人生を振り返る目ではなく、主が常に新しい道を造り、導いて下さった日々を感謝し、新しい明日への道を信仰と希望の内に歩みだそう。
2013.11.3 『満ち足りた日々』
聖書箇所/ガラテヤ5:13~17 メッセンジャー:川内活也師
神が与えられている恵みは充分である(Ⅱコリ12:9)。その充分な恵みも、肉の欲によって用いようとすれば「不足」「不服」「不満足」としか見えず、つぶやきと失望が生まれ、不自由な罪の奴隷として死と滅びへと歩む(Ⅰコリ10:1~13)/神が与えて下さっている恵みは1粒の種。しかもそれは発芽率100%で30倍60倍100倍の収穫率なのだ。それを「不足」として蒔くことをしないならいつまでも満たされる事はない/与えられている1粒の種、『充分』な主の恵みを感謝し、充分な恵みを神の賜物として与えられている生活の全領域に蒔く時、用いる時、満ち足りた日々を歩み、豊かな実を結ぶのである。
2013.11.10 『服従』
聖書箇所/Ⅰコリント10:12~13 メッセンジャー:川内活也師
試練(苦難)にはいくつかの種類がある。神が備えられたもの・人が自らの罪によって招いたもの・罪の世の影響によって人の身に起こるもの/全ての試練は人にとって好ましいものではない。しかし主はそれら全てを人が成長するための益と変えて下さる(ロマ8:28)/パウロは「耐えられない試練は無い」と宣言する。補足するならそれは「圧倒的な勝利者であり全てを益に変えたもう主と共にある限り」である/聖書が語る忍耐は人が知る我慢とは違う。脱出の道は逃亡の道とは違う。神の約束は「敗走」ではなく「勝利の凱旋」なのだ/神の約束されし脱出の道=神の約束に服従する時に与えられる圧倒的勝利の成長の道に主は招かれる/十字架の死という人の目には完全な敗北と死としか映らない試練を通り、イエス様は圧倒的な勝利の道、復活の道を示されている/「脱出の道」は主の御手に引かれなければたどり着けない<復活の道>なのである
2013.10.27 『これくらいかな?』
聖書箇所/ルカによる福音書7章36~50節 メッセンジャー:川内裕子師
イエスがシモンという名のファリサイ派の人に請われて彼の家で食事をしていた時、その町の罪深い女とされていた女性がそれを聞きつけ、イエスのもとにやって来ます。彼女は涙でイエスの足を濡らし、髪の毛で拭い、その足にキスをして香油をぬりました。心の中でその女性の事をつぶやくシモンに、イエスはこの女性があらわした愛の深さで、この女性が多く赦された事がわかる、と語ります。私達が神を愛したからではなく、神が私達を愛し、赦して下さったから私達は神を愛するのです。イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しをうけ、私達は自分自身に対する神の愛の深さを知ります。この女性のように神の愛に応えて歩むものとなれますように。
2013.10.20 『つまずかない』
聖書箇所/ルカによる福音書7章18~35節 メッセンジャー: 川内裕子師
イエスが多くの人々をいやし、励ましの言葉を語るところにバプテスマのヨハネは弟子を送ります。「あなたが私達の待っていた方でしょうか」。イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と言います。私達はイエスが語られ、行われたことを、皆見聞きするのです。けれどもそれにつまずく者もいるし、つまずかない者もいます。「つまずかない者は幸いだ」と、イエスは言われました。イエスの語る福音を聞いても、それを受け入れるのか、受け入れないのか、大切なのはその一点ではないでしょうか。イエスにつまずくことなくその福音を自分のこととして受け入れる時にはじめて、主の業は実現してゆくでしょう。
2013.10.13 『つなぐもの』
聖書箇所/ルカによる福音書7章1~17 メッセンジャー:川内裕子師
百人隊長の奴隷が死にそうな病気であった時、百人隊長はユダヤ人の長老たちに、イエスへの取り次ぎを依頼します。長老たちにとっての異邦人であった百人隊長の頼みを長老たちは引き受け、熱心にイエスに依頼をするのです。また夫を亡くした女性が、さらにひとり息子を亡くし、その葬列が進む時、ナインの町の人々は、その女性に付き添い、女性の悲痛な思いとともに歩みます。百人隊長の奴隷は回復し、女性のひとり息子は生き返らせられました。そして人々は主の業が行われる時、そこに居合わせることが出来ました。隣人に寄り添い、共に歩み、彼らのために執り成し祈る時、私達も主の業が現れることを目の当たりにする恵みにあずかる事ができます。
2013.10.6 『その根っこに』
聖書箇所/ルカによる福音書6章43~49節 メッセンジャー:川内裕子師
人の口から出てくる言葉で、良い実を結ぶのか、悪い実を結んでいるのかが分かります。けれども考えるべきは、外から見える言葉ではなく、その言葉がどのような心の根っこから出てきたかではないでしょうか。心の蔵に良い宝を入れる人もいれば、悪い宝を入れる人もいる、とイエスは語ります。また、イエスの言葉を聴いて行うものは岩の上に土台を置いて家を建てた人のようだと語ります。見栄えのよい外観を目指すのではなく、深く深くみことばに根を張って、心の蔵に良い宝を入れ、言葉も行いもよい実を結んでいきましょう。
2013.9.29 『新生のための一歩』
聖書箇所/ルカ5:27~32 メッセンジャー:川内活也師
取税人レビ(マタイ)とイエス様の出会いの箇所/経済的安定職であってもユダヤ人社会では「悪人・罪人」と蔑視されていた当時の取税人職。埋まらない心の隙間を抱えてレビは日々を過ごしていた。目に映る「景色」はいつまでも変わらないと思って生きていた/立ち上がって歩み出す時、見ていた景色は変わるものだ。レビはイエス様の招きに対して一切の言い訳も自己解釈も無く、直ちに招きに応じて立ち上がり歩み出した。それは新しい命へ一歩。彼の目に映る「景色」は活き活きと動き出した/主は私達に帰るべき道、住まうべき家を示し「共に歩みだそう」と招かれる。その御声に従って一歩を踏み出す時、何をもっても埋められなかった隙間は主の愛で満たされ、新しいいのちの日々としての人生を主と共に、我が家へと向かって歩み出し、新しい人生の「景色」に出会う日々となるのである。
2013.9.22 『望み』
聖書箇所/使徒7:54~60 メッセンジャー:川内活也師
人は地上では「寄留者・旅人」である(詩篇119:19)というのが人の価値基準で作られて来た思想と違う聖書の真理/この真理に立って人生を見つめ直すと人生は面白い/この人生という旅は「放浪」ではない/帰るべき家を持つ者にとっての旅は「旅行」である。以前の私達は帰るべき「家」を知らない放浪者であり、どこに行くかを知らぬ「彷徨い人」であった。しかし主なる神は人に「帰るべき家」を知らされた/キリストによって明らかにされた神の愛により「放浪者」から「帰るべき家を持つ旅人」として望みを得た信仰者ステパノ。彼の「旅」の終わりは迫害下の殉教であったが、望み在る者にとってはそれもただ「旅の醍醐味」に過ぎない。何者によってもこの望みは奪われないからだ/圧倒的な勝利者として帰るべき家に凱旋するステパノの姿。望み在る旅路であるからこそ、人生の一歩一歩を、私達も「楽しみつつ」歩んでいこう!
2013.9.15 『ああ、我が子よ』
聖書箇所/Ⅱサムエル15:1~6 メッセンジャー:川内活也師
ダビデは「信仰者」「王」としては優れた者と評されるが「父」としては落第者と評される/ダビデの子どもに対する愛は盲目的で子らをダメ王子にしてしまった/王子アムノンの暗殺により王位継承の道から遠ざけられたアブシャロムは謀反を企て、ついにダビデ王軍と対峙するが、ダビデは王座を放棄して都を出る。王座についたアブシャロムと彼の兵はダビデ軍を追撃するがその深追いによって敗北し、アブシャロムの死によってこの内乱は終結する/ダビデは自軍の勝利を喜ばず、我が子アブシャロムの死を悼み悲しむ/ダビデが神に大きく用いられたのは、人の価値基準では「父」として落第者と評されるほどに我が子を愛する「父」であった姿。神が人を愛される姿に類似する愛の姿/神は、敵対する者として死と滅びに捕らわれている愛する子である人のために、御自身の全てを棄てていのちの道を与えて下さったことを思い出そう。
2013.9.8 『愛の愛』
聖書箇所/ホセア3:1~5 メッセンジャー:川内活也師
「愛なる神」(Ⅰヨハネ4:8)と人との類型は親子や夫婦が挙げられる/ホセア書は特に類型的夫婦関係からの預言書である/性的不道徳に歩むゴメルとの結婚という形でホセアの預言者としての働きが導かれる。愛される者でありながらその愛に応える事無く罪に歩むゴメルと、しかし尚、愛し続けるホセアの姿はまさに「神から離れし人類と、愛し抜かれる神」の類型/自分を満たす者を求めて彷徨うゴメル。彼女にとってホセアもまた「自分を満たしてくれない者」と考えたのだろう。夫のもとを去って再び罪に身を落とすゴメルを、それでも愛し犠牲を払って贖うホセアの姿は今度はどう彼女の目に映ったろうか?/ホセアとゴメルの結末は記されていないが、神と人との真実なる交わりの回復が告げられるこの預言の類型として、ゴメルはホセアの愛の愛に愛の愛をもって応える満たされた人生を歩んだであろう/神の愛が足りないのではない。神の愛gを受ける器を閉ざしている罪のフタが妨げとなっているのだ/愛の愛を知らされてなお、隔て(罪)のフタを取り除かないなら、誰も満たされる事などないのだ
2013.9.1 『継承』
聖書箇所/Ⅰサムエル8:1~9 メッセンジャー:川内活也師
士師の時代から王国建国初期に用いられた偉大な預言者サムエル/信仰者として民を導き王を導くほどの働きに召されていた人物でありながら彼の信仰はその子らに継承されなかった/彼の「師」である祭司エリの息子らと同じく彼の子ヨエルとアビヤもまた自己利得に生きる者となっていた/子の罪・親の過ちを親や子が負う事はない(エゼキエル18:20)。しかし、歩むべき道を正しく示す責任は大きい/クリスチャンは自分自身が失格者とならぬように歩む自己責任(Ⅰコリント9:27)と同時に、信仰の継承という責任(コロサイ3:16)を委ねられている/継承すべき信仰を確かにし、確かな信仰を継承する人生の日々には大きな収穫の喜びが満ち溢れるのだ/主なる神様との交わりに結ばれて歩む恵みの福音に与かったのなら、愛する家族へ、友へ、この恵みの福音を継承しよう!