前週6日間の働きを終え「主なる神さまとの交わりの家」である教会(礼拝)へと帰って来た「子」への神さまからの「お帰り」の言葉として語りかけられる聖書の言葉です。
色んな事があった一週間。でも、私たちはその全ての労を知り、ねぎらい、休みと糧と平安で包んで下さる神さまとの<親しい親子の交わり>が与えられている事を覚えつつ「ただいまー」の思いをもって招きの言葉に耳を傾けましょう!←礼拝プログラムへもどる
キリスト教における「祈り」は天地万物の創り主である唯一の神さまに向かう<会話>です。
私たちが人と向き合って語り合うように、聖書の神さまは私たちと向き合ってその思いを聞いて下さいます。それはまるで子どもがお母さんやお父さんに語りかけるような交わりの関係のひと時です。
「お父さん(お母さん)、あのね…」と子どもが語りかけるように、「天の父なる神さま」とか「主なる神さま」という呼びかけでこの「祈り」の会話は始まり、あとは自由にその会話(思いを伝える)のひと時を結びます。
礼拝の中での祈りは「会衆の代表としての祈り」ですので、一人で静かに「祈る」時と、集まっている人々の代表として「祈る」時には多少の言葉遣いの違いはあります。とは言えそれは人前で親に語りかける時と家族だけの時では違うのと同じ程度の違いです。格好の良い、整った言葉でなければならないというようなものではないので、安心して聖書を通して教えておられる「神さま」に向かって語りかけて下さい。
また「祈り」の終わりには神さまと人との交わりの関係を回復されるために、罪の罰を十字架で代わりに受けて下さり、死なれ、復活された「イエス・キリスト」の名によって信じて祈ることを「~このお祈りをイエス様のお名前を通してお祈りします」というように告白し、最後に「アーメン」(ヘブライ語の真実・本当という意味の単語。この祈りは心からの思いを嘘偽りなく語りかけたものですという意味)」と告白して終わります。ですから、礼拝の代表者の祈りなどの時には、その祈りの言葉に耳を傾け、自分自身の祈りの言葉として最後の「アーメン」は一緒に告白します。
讃美とは「ほめたたえる」という意味です。教会ではその「讃美」の言葉を曲に合わせて歌う「讃美歌」があります。これは何百年も何千年も前から作られて、神さまに向かってささげられてきた祈りです。ですから讃美歌を「歌いましょう」ではなく「ささげましょう」と私たちの教会では勧めます。その歌詞、一語一語が作詞者に与えられた祈りであり、証しであり、神さまからの招きですので「歌うこと」に重点があるのでなく、その言葉を自分自身の「祈り」としてささげる事に重点をおきます。そのように、讃美(讃美歌)は人に聞かせるコンサートでなく、自分が気持ち良くなるカラオケでもなく、心からの神さまとの交わりの祈りの時間としてささげるものですので「上手」「下手」が問われるものではありませんので、初めての方でも歌詞をよく噛みしめ、自分の祈り、自分への神さまからのメッセージとして受け止めつつ、可能な限りメロディに合わせて讃美しましょう!←礼拝プログラムへもどる
教会の「献金」はお寺や神社の御賽銭や供物とは根本的な意味が違うものです。
日本の伝統的な宗教意識では「人が自分の所有として持っている金品」の一部を、たとえば自分の希望を適えてもらうため、あるいは自分の希望を聞いてもらえた御礼という認識で神仏に差し上げるというのが一般的な理解です。
しかしキリスト教会ではそのような「神を御利益利用する」という認識をもっていません。神さまは人の価値基準である「お金」で動かせるとは聖書では教えられていないからです。
人が世に在って得ている全てのものは「神さまのもの」であり、私たちはそれを「預けられて」いるのです。「預かりもの」に対して私たちはそれを「自分のものではないから適当に扱う」のか、それとも「大切に扱う」のかが問われています。
預けられているものの中には神さまが私たちの日々の生活を「明るく・元気に・楽しく・伸び伸びと過ごすために用いなさい」と与えて下さっているものと、「これを用いてあなたの隣人を助けなさい」と与えて下さっているもの、また「これは良き働きのために用いなさい」などなど、神さまの御計画の中で委ねられているものがあります。
それぞれをどのように用いるのかはそれぞれに委ねられていますが、その全ては「大切に」用いるべきと考えます。
献金はそれぞれに委ねられているものをそれぞれが心に決めた通りに、直接的な神さまの福音宣教の働きへと用いるためにささげるものですので、金額の多少や他人との比較によって優劣を計られるものではありません。どうぞ、思いのままにご自由におささげ下さい。(←礼拝プログラムへもどる)
『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛して下さいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です』
コリント人への第二の手紙 9章6節~8節
天にまします我らの父よ
(誰に祈るのか?それは主なる神さまに向かってです)
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ
(本来、神との関係を断ち切った罪の存在である人間は主なる神さまの御名を知らない者、神を知らない存在でしたが、今はその交わりの回復が与えられています)
御国(みくに)を来たらせたまえ
御心(みこころ)の天に成るごとく 地にも成させたまえ
(神の支配=主なる神様が導き建て上げられる正しい日々を、世界規模と共に、個人規模、自分自身の人生に与えて下さることを信じます)
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
(前述のように完全で正しい、真実なる神さまであると信じる信仰によって、私たちは子どもが親に願い求めるように必要を求めて祈ります)
我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく
我らの罪をも赦したまえ
(罪の悔い改めは日々必要です。気づいてることだけでなく、気づいていない「罪」に気づかされるのも祈りの大きな幸いです)
我らを試みに遭わせず 悪より救い出だしたまえ
(自分の罪の結果なのか、他の者の一方的な悪によるものかは分かりませんが、試練・苦しみはイヤなものです。そんな目に遭いたくはありません。真剣に「試みに遭わせないで下さい!」と祈ります。…でも、それでも「試み」に遭うのなら、それは神さまが脱出の道・成長の道・回復の道も備えて下さっていると信じる信仰によって「悪」の道に迷い出てしまう事はありません)
国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり
(この一文はイエスさまが直接語られた祈りの言葉ではなく、後日、初期のクリスチャンが「主が与えられた祈りの教えへの応答」として加えたものです。「全世界・全歴史は汝(神さま)のものです」と告白すると同時に自分と個人の全存在も神さまのものですという献身の告白です。
アーメン
(「アーメン」という言葉はヘブライ語の<真実です・本当です>という意味の単語で、祈りの結びとして「今、祈った祈りの言葉と思いは私の心からの真実な語りかけです」という告白の意味があります)
正統なキリスト教会において、唯一の信仰の規範として認められているのは「聖書」のみです。
聖書は神さまが御自身の愛する子である存在「人間・人類」に与えられた唯一の手紙、ラブレターです。
神御自身が語られたことばを特別に選ばれた人が書き記していたり、歴史の中で「口伝(言い伝え)」として受け継がれて来たものが文章として書き記されていたり、また、神さまの歴史的介入の出来事が書き記されたりと「筆者(書いた人)」は様々でその形式も様々ですが、全体を通して1つの方向を指し示すために「神が与えた御言葉集」が聖書です。
全ての存在の造り主が主なる神さまただ御一方である事。この御方が愛する存在として人を生みだされた事。人は神の愛を断ち切って生きる存在となってしまった事(罪)。罪は人を捕えて「死と滅び」に向かわせてしまう事。しかし神は愛する子である「人」が永遠の死と滅びに引き渡される事を良しとされなかった事。罪の支配を打ち破るために御自身の存在(三位一体)を引き裂いて御子キリストを全ての罪の代価として世に降し、罪人の死の象徴である十字架において死なれた事。キリストのいのちを飲み込めなかった「死」はこの方を吐き出し、この方のいのちを持つ者はもはや飲み込む事が出来ないと敗北宣言をした事。三日目に死に勝利されて復活されたキリストのいのちは、神さまとの交わりに結ばれる全ての人に、誰にでも優劣なく与えられる事。全歴史は、やがて罪の支配の中で滅びに向かうが、神御自身の御手で新しく造り変えられ、本を閉じるように終わりの時を迎え、永遠の神の御支配の中(天国)に、神との交わりに結ばれた者は移される事。
聖書全体を通して語られている神さまの思いは「愛する我が子よ。帰っておいで!」という親が子を思う以上の愛の招きなのです。(←礼拝プログラムへもどる)
今礼拝の聖書箇所から牧師(説教者)がお話しをします。聖書の御言葉を、今を生きる私達が理解し生活・人生に適用する一助となる説き明かしや証し・例話などを、30分程度(子どもメッセージは10分程度)にまとめてお話ししています。原則として、録画・録音・メモは自由です。質問や相談がある場合は、礼拝後に牧師(説教者)までお気軽にお尋ね下さい。