活也牧師の日々一想~過去帳~

もとのページにもどる

今年の3.11の思い

「牧師は政教分離の原則に従って政治や社会問題には口を出すべきじゃない!」なんていう人がたまにいますが、牧師だからこそ、クリスチャンだからこそ「神に委ねられし世界・社会」に目を注ぎ、しっかりと足を踏み入れるという使命を持つワケです。

教会(界)の中だけで自分(達)の信仰共同の社会しか持とうとしないってのは、信仰深いように見せて、実は「神さまの御心がなんであるか」を聞こうとしない「自分勝手信仰」なんだと僕は思うワケです。でも、その信仰生活姿勢を大事に思ってる方は「我こそが神の真理に立って生きる真のクリスチャンだ!」と自負されてるようなので、ちょっと距離をおいてしまいますね。

とは言え、組織化された「社会運動」に加わりたいとも思いません。同意をもって働きに加わろうとする場合、自分の価値観を「否定する先輩」が多い事に嫌気がさします。「分かってない」とか「上辺だけだ」とか「そんなんじゃこの運動に加わる資格は無い」なんて言う<特権階級>がその運動の社会にも出来上がってるワケで、それは教会関係の「社会運動」の方々にも多々見られるものです。だから、組織として運動されている方々とは一緒に居られません。

結局僕は聖書に聞き、僕の出会った福音に立ち、僕を愛し・僕が大好きな神さまとの交わりの中で、自分はどのように歩むかを選び取って歩む事以外はしないし、出来ないんです。

今日の想い。福島第一原発事故以前は「超厳重管理体制下での長期計画でゆっくりと原発依存から次世代発電へと移行すること」を自論としてましたが、事故後は「潜在リスクがこれほどに大きい危険な発電は即時やめるべき」との思いが固まってます。

原子力ムラの利権構造が、どれだけ1人の人間・1つの家庭を軽く見る「利己主義権力者」によって成り立っているかがこんなにハッキリ見えるのに、見えないふり・見ないふり・考えない事が平和・安心につながるなんて思えません。

自分が今出来る「社会への参与」を、一歩づつ歩もうと決意した今年の3.11でした。


自由画帳

今日は妻が妻の母に付き添って朝から病院へ行きました。

昼過ぎには帰ってくると聞いてましたが、結局、昼食も取れないまま夕方まで検査だったとメールが来たので、それなら夕食は僕が作ろうかと。お義母さんも一緒にどうぞって事になりまして、家にある食材からカレイの煮付け・竹の子と鶏肉の出汁煮・納豆という簡単メニューを作っておきました。

たまに義母も一緒の食事は囲みますが、高齢で細身ですのでいつもは小茶碗に軽く一杯しかごはんは食べません。が、今夜はお腹も空いてたからでしょうけどオカズも何度もお代わりされて、ご飯もお代わり普通に一杯と半を食べられてました。

で、その姿を見ながら「作って良かった~」と嬉しく思い、幸せを感じた夕べのひと時でした。

「そんなこと」の繰り返しで、幸せな日々を重ねていける人生って、神様からいただいた自由画帳みたいだなぁ(^^)

 


信教の自由を守る日

今日は「建国記念日」として国民の祝日に制定されていますが、教会はじめ多くの宗教団体や諸団体では「信教の自由を守る日」等の名称で覚えて過ごしています。

2月11日は天皇制政治による国家統治を目的に戦前作られた紀元節と同じ日だからです。日本書紀の記載記録に基づき、初代天皇神武天皇即位記念の日である2月11日を「日本誕生の日(建国の日)」と定めることで、太平洋戦争終結まで「天皇=日本を作った神・だから天皇のために命をかける事こそ尊い国民の義務」として多くの国民は政府のマインドコントロールや国権乱用による強制的服従を強いられていました。

「在るべき生き方」を選ぼうとする者は「非国民」であるとされ、地域社会からの暴力や差別の対象とされ、キリスト教会など宗教界にも「第一は天皇、その庇護の下で各自の信仰は自由」とのお達しが徹底され、そのお達しを受け入れない団体には国家弾圧が及びました。多くのクリスチャン、牧師が身体的・精神的苦痛の弾圧を受け、中には殺害された方々もおられました。

弾圧を逃れるために御上の通達に従って「天皇第一」を選んだキリスト教会も少なくありません。というか、ほとんどが聖書の神を天皇(国家神道)の下であると公言することで、細々と信仰を隠した教会を守る事を選ばざるを得ない状況になっていました。

敗戦後にこの天皇制独裁政治体制(というか天皇を政治運営に利用した体制)は一応の廃止を見、紀元節という祭日も廃止されましたが1957年には名前を「建国記念日」と変えての議員立法が国会に提出され、1966年に「建国記念の日」を定める事が国会で可決されました。そしてその後、建国記念の日を何月何日にするかという協議の結果、紀元節と同じ2月11日と決定されたのです。

対外的には「新しく作られた日本の祝日」と言いながら、作った人々の本心は「紀元節の復活(戦前体制への回帰願望)」であったとしか思えない「建国記念の日」制定の流れに警鐘を鳴らし、もう二度と「声を上げずに戦争加担する教会(団体)にはならない」という決意をもって「信教の自由を守る日」として覚えているわけです。

僕は基本的にあまり直接的な社会運動には参与しないタイプのクリスチャンですが、それでもやっぱり先の戦時体制は間違った国政だと思うし、絶対に復活させてはならないマインドコントロール社会だといつも思っています。上げるべき声さえ上げなきゃ、あまりにも「無責任な個人信仰」レベルに福音を貶めちゃうってのは、戦時下教会の姿からの反省です。

 


明日

今月は2ケ所の外部集会奉仕を依頼されていまして、そのメッセージ準備に結構な時間を割いています。

そんな中で、ふと「明日」という言葉を考えることになりました。熟語としては「日が明ける」という意味の言葉なんですが、漢字の意味だけで見ると「明るい日」なんですよね。なんだかとっても将来と希望に溢れた言葉だなぁって思いました。

さんびの中に「明日を守られるイエスさま」という曲があります。

明日はどんな日か私は知らない…だけど私は心配しないイエスが私を守られるから…明日は私には分からないけど明日を守られるイエスがおられる

天地万物の創り主である主なる神さまの御手の中で、イエスさまの復活のいのちの中で歩む時、分からない(不安)な「明日(将来)」も「明るい日(希望・安心)」の一日となるんだよなぁって改めて思いました。

自分が遣わされている交わり慣れた教会でのメッセージ奉仕と比べて外部奉仕は準備の段階からかなり緊張し、何回も何回も聖書箇所を読み返し、参考資料をひっくり返し、気持ちも時間も余裕なく過ごしてしまいます。そんな自分に気づき、ちょっと反省した一日でした。

自分に無いものを付け焼刃で飾ったところで、それは中身のない張りぼて。5倍に薄めて美味しいカルピスも、多くあるように見せかけて10倍20倍に薄めれば結局全てが薄くて不味くなる。たとえ少量で物足りない、味見程度であってもいいから、与えられている福音のままを証ししようと改めて思ったら、肩の力が抜けて今日も明るくなりました。

背負いきれない重たい荷物を無駄に自分で作らずに、本当に必要な手荷物だけで歩めば、毎日明るくなるんだろうなぁ。

 


責任転嫁

現パナソニックを一代で築き上げ<経営の神様>と呼ばれた松下幸之助さんは『ものごとが上手くいった時は「運が良かった」と考え、そうでなかった時は「原因は自分にある」と考える。つまり、成功は運のおかげで失敗は自分に責任があるという事だ』という考えをもっておられたそうです。さすが気骨のある実業家さんだなぁと感心します。

聖書には

伝道者の書7章14節『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである』

という御言葉があります。うまくいってる時は神さまの恵みと祝福の導きを喜び、そうでない時は自分自身の姿勢を省みる事を勧めています。今から2500年以上も前からの勧めですね。

さて、僕自身はどうかなって考えてみます。基本的に「うまくいかない」場合は自分以外のせい、うまくいった・良い結果となった場合は「自分の手柄」って考え方をしているなぁってすぐに理解出来ます。

たとえば何か探し物が発生した場合、瞬間的に「自分はどこにそれを置いたか?」ではなく「誰かが勝手に場所を移動したに違いない!」と他者を疑うわけです。実際、数回に1度位は思った通り「誰かのせい」という事もありますが、ほとんどは自分のせいなんですね。

ものごとの成功も、自分のアイデアや助言で上手くいくと嬉しいし、自分のアイデアや助言を聞いてもらえないために失敗したら「だから言ったのに…」と失敗の責任は自分にはない、むしろ自分の意見を汲んでれば成功したのにって誰かの責任を追及する、なんて事も多々あります。

縄跳びを練習している子どもが「見ててー」というので見てました。引っかかる度に「靴が悪い」「風がふいたから」「場所が悪い」と言い訳を連呼、しまいには「ねえ、見ないでてくれる?」と、見ててくれと言われて見てあげていた僕のせいにされちゃいました。

そんな子どもの思考を見ながら、我が身の成熟して無い幼児性をまた反省させられるわけですね。

僕的には「上手くいってる(上手くいった)こと」については、まあ、少しくらいは自分を褒めてやっても良いんじゃないの?って思ってますが、少なくとも、上手くいかない事についての「自己吟味・自己反省」はきっちりしないと、ましてや他人への責任転嫁を第一に考える姿勢だけはあらためなきゃなと思えるようになったのは一歩の前進かなぁ、なんて思った一日でした。

 


ふつう

「ふつうさぁ…」って言い回し、あれって良くないですね。ま、自分がそうだから余計に気づいたんですけど。

誰かに何かの意見を言うとき、よくあるパターンとしては「自分は出来てるけど相手は出来てない・間違ってる」という「責め」のタイミングで使う言い回しかなって思います。

でも自分にとっての「ふつう」が相手にとっても「ふつう」かどうかという大前提の問題点があることを忘れてる場合がほとんどですね。

「ふつう」=「一般的」なんて気持ちで言ってる場合なんか手に負えません。本当に自分の理解が「ふつう」=社会全般で大多数を占めている理解・認識なのかという基準で考えれば、案外、それほど多数の賛同を得られない意見を「ふつう」と考えてるのかも。もしかしたら、自分の考えは社会全般では少数派なのかも知れないわけです。

同じような意味合いでは「まとも」という表現も問題かもです。自分は「まとも」と思っていても、誰かから見れば「異常」と判断されるかも知れないものです。昔は「まともに働け!」なんて言い方を聞く事も多くありましたが「まともに働く」という基準は現代ではかなり多様化してるわけで、これってかなり基準が難しいと思います。

「ふつう」にしろ「まとも」にしろ、結局は自分の意見を誰かの権威を借りて、あたかも自分の意見に権威性をもたせようとする姑息な自己防衛の言葉・言い回しなのではないかと感じます。

あと「ご存じのように」という言葉の多用もどうかと思います。自分が知ってる事は誰もが知ってて当然という一見謙遜な表現ですが、多用する人は「知ってて当然の事だから自分は知ってるけど、あんた達はこんな事さえ知らないんだろう?」という優越心・他者を見下す姿勢が有り有りに感じられ、謙遜の皮を被った超傲慢に見えて来ます。

で、結局のところ思うのは、意見を言うなら自分の責任・自分の1提案という姿勢で臨むことが大切かと。勝手に「みんな」を仲間に引き込んで少数の相手を責めるのは卑怯で姑息で傲慢で主体性のない薄っぺらな意見になるから、相手の心にも届かないんです。「自分はこう思うんだけど…」という個として向き合う時に、初めて相手も「個」としての人格ある意見に耳を傾け、両者の対話は成立するものなのですね。

 


原発再稼働容認自論

東日本大震災に起きた福島第一原子力発電所の事故。いつ終息するのか、無害化されるのか全く見当もつかない状況が続いています。

そのような中でも、すでに政府や一部のエネルギー政策関係者方は、現在停止中の原子力発電所の再稼働を進めようとしています。他国にも原発を売ろうとしていますし、すでに契約段階にある商談も成立しそうです。

核エネルギーは確かに、化石燃料と比べてその熱量や利用可能量はケタ違いに優れていると、科学の素人でも納得出来るエネルギーです。だから、世界のエネルギーバランスを整えて、エネルギー資源戦争を抑制しようという「平和利用目的」という思想そのものは僕も理解し、共感しています。

…が、原発の継続利用・再稼働という現在の動きには絶対反対です。ということで、僕が再稼働を容認出来るとしたらどんな状況になったらかなぁなんて考えてみました。

<福島第一原発事故と同レベル過酷事故はいつかまた必ず起きるという認識が大前提>

・未使用か使用済みかを問わず、一切の放射性物質を排出しない燃料集合体を開発すること

・レベルを問わず、放射能汚染された全ての物質から全放射性物質を分離する技術が実用化されること

・いかなる過酷事故が発生しても施設敷地外には一切放射性物質が拡散しない実証された防護策があること

・事故によって施設敷地内に拡散した放射性物質は2~3日内で集積無害化する技術が確立していること

・メルトダウン(スルー)発生時にも速やかに溶融燃料を全て回収して無害化出来る技術が確立していること

・燃料棒、放射性物質を無害化して自然界に戻す技術が確立していること

・全ての情報が隠ぺいされる事無く開示されること

とりあえず、これだけの状況が整えば原発エネルギー再開にも容認出来るかなぁ。つまりは「夢のような技術」が確立しない限りは使っちゃいけないエネルギーってこと。

せっかくなんで、今なら世界シェアナンバーワンの原発解体技術産業国になれる機会ととらえ、まずは現存全炉を安全に廃炉して技術を磨いてはいかがかと思うんです。もしかするとその作業と技術開発の中で、前述条件をクリアする新技術も生まれるかも知れませんしね。

 


人・金・モノ

経営資源として挙げられる3点セットの「人・金・モノ」。事業を行う上では人材と資金と資材のいずれも欠かせないって意味で教わりましたが、近年ではこれに「情報・時間」を加えた5点セットも提唱されてるみたいです。確かに事業には情報も時間も必要ですからねぇ。

事業経営だけにとどまらず、社会構造でもやっぱり「人・金・モノ」という3要素は必要だと思います。人が居なければ金もモノも動かないし、モノが無ければ人が立ち行かないから金もただの紙切れになっちゃいます。

でも「人」と「モノ」があれば成り立つ世界もあるという考えもあります。それがアンパンマンの世界観です。子どもと一緒にアンパンマンを何度も観ている中で、他のアニメ等と違った世界観をやなせたかしさんは表現してるんだなぁと気づいて驚きました。

アンパンマンの世界は基本「物々交換」の社会構造になってます。それぞれが自分の持っている「モノ」を必要なだけ融通しあって社会が成り立っているんですね。

お金で売り買いするのでなく、それぞれが持つ技術や能力を分け合い、自分に必要なものを分けてもらうという形であの世界は十分に成り立ってます。さすがアニメの世界!…でも、全くの非現実世界では無いと思うわけです。

「カネ」という価値が生まれる前の世界は物々交換社会だったワケですし、「モノ」の価値についても需要と供給のバランス下で誰かが「利益」を求めなければ、アンパンマンの世界は実現可能だと思うんです。

とは言え、今在る現実の経済社会構造の中では実現不可能な夢物語の世界観だという残念な「常識」も持ってるんですけどね。

何にしても、「人」が居なければ町も国も成り立ちませんが、国も町も無くっても、「人」が居ればそこに新しい国・新しい町は作られていきます。

国家あっての国民ではなく、民在っての国。優劣つけがたい経営資源の3大要素「人・金・モノ」とは言っても、その中でやっぱり第一に考えるべきは「人」なんだよなぁと思うのです。

箴言17:1『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる』

家庭も国も町も、ごちそうと争いに満ちるよりは、多少貧しくても平和であるほうがいいなぁ。生きられないほどの貧しさじゃ困るけど…

 


無いものは無い

以前、なんかの番組で「ないものは無いお店」というのが取り上げられてました。日本語の面白さですよね。「(この店に置いて)ないものは(ひとつも)無いお店=何でもそろう店」とも読めますもんね。取材もその路線でインタビューしてましたが、当然のことながらお店の方は「ないものは無い!=置いて無い物を要求したって無いよ!」と応えてました。まあ、「有るものしか無い」って事ですね。

受験シーズンになってます。身に付いてないものは出せなくて当たり前。付け焼刃じゃ役に立ちませんから、「無いものは無い!でも、有るものは有る」と胸を張って試験に臨んでもらいたいものです。緊張や興奮、不安や心配でせっかく身に付けた知恵・知識が本番で出せず終いってのはもったいないですからね。

詩篇3篇5節『私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから』

敵に囲まれた状況の中でダビデは平安の中で横たわって眠ったそうです。無いものは無い。有るものは有る。有るものだけは全部出し尽くせるように祈って試験に臨みましょう!

 


台風

本日9時に台風1号が発生したとのニュースがありました。日本には影響が無いようですが、この時期に「台風発生」というニュースを聞くのはなんだか不思議な感じがします。

有りがちな話ですが、子ども達はこのニュースを話すと「台風100号が一番強いんだよね?」などと頓珍漢な話題で盛り上がっていました。そういえば僕も子どもの頃は同じように号数が多くなるほど強い台風なんだと勘違いしていた気がします。

子どもの頃は「ミリバール」で表されていた台風の強さも、いつの間にか「ヘクトパスカル」になり、最近では「ミリバール」という単位を知らない世代も多くなっていますね。

知恵知識が未熟である事は決して恥ずかしいことではないと僕は思っています。初めから何でもかんで熟知している人なんていないんですから。それに、生きて行く上で必要な知恵知識と不要な知恵知識ってのもありますし、生活環境によってある人には必要でもある人には不要なものもあるんですから、最低限の一般常識以外はあくまでも「オマケの知識」と考えています。もちろん「一般常識」と僕が考えてるものも、人によっては必要以上であり、人によっては不要なものだというのも忘れないようにしないといけないなぁと思ってます。

まあ、とにかく「間違った知識」については子ども達に訂正を教えなければならないのが親の務めですから、台風の号数は強さではなく発生した順番なんだよ、と丁寧に教えた次第です。で、結果としてはそんな「無駄な知識」には関心もないようでキョトンとした顔で「じゃあ、何号が1番強いの?」との返答。必要な時期に必要な知恵と知識を必要なだけ身につけてくれれば良いか、と。

学校が休みの土曜日。嵐のような喧騒を巻き散らして、子ども達は外遊びに出かけて行きました。

 


震災復興

1995年1月17日早朝5時46分に明石海峡を震源地とする大規模地震が起きました。近隣地域に大きな被害をもたらしましたが、特に大都市である神戸市市街地の被害は甚大で、日本人だけでなく世界中の人々に大きな衝撃を与えました。「兵庫県南部地震(気象庁命名)」「阪神・淡路大震災(閣議決定呼称)」と呼ばれるこの大規模震災では約6,500人の死者と4万3千人以上の重軽傷者、約32万人の被災避難者が生じました。

これほど大きな被害に遭った震災でしたが、政府は復興のために5年間の時限立法を施行し被災地の復旧・復興に国全体で取り組んだ結果、2~3年も経つと町並みが以前のように復興していく姿がニュースで流れていたのを思い出します。被災者・御遺族お一人お一人の痛みや傷は決して「復旧・復興」されるものでは無いですし、今もなお「被災者」であり、生涯「被災者」としての傷を負ってではあるでしょうが、それでも、大震災を受けた「国」が新しい道を歩み出す未来図が描かれてきました。

日本はこれまでの歴史の中でも、幾度も大きな自然災害、戦災を経験してきました。その時々に、人々は茫然自失で立ち尽くすしかない時間を過ごし、それでも、新しい未来図を描いて「復旧・復興」の道を選び、それを成してきました。人間の内に在る「創造の力」を感じます。

さらに大きな規模の被害を受けた日本周辺観測史上最大の東日本大震災。大きな津波に町が飲まれる姿に恐怖を感じる映像が何度もニュースで流され、日本全体に大きな傷を残しました。被災地以外の地域の人が、その映像によってPTSDを患ったという話も聞くほどの衝撃でした。

それでも「何も無ければ」人々は人類史上の例にならうように「復興・復旧」の道筋を整え、未来図を描き、その道を歩む事が出来たと思います。しかし、これまでの人類史の災害では無かった「原発事故・放射能汚染」という事態下に今、置かれています。

3年?5年?10年?道筋はいつ描けるのでしょうか。これまでと同じ農作物を作り、漁業を営み、野山を子ども達が駆け回る、人体の遺伝子に悪影響を与える事の無い土地・水・空気ある町として全ての被災地が、日本が「復興」するのはいつの日でしょうか?

30年近く経って尚、周囲数十キロに渡って立ち入り禁止区域を設定しなければならない危険な放射能汚染が続いているロシアのチェルノブイリ原発事故。核燃料を取り出す事も出来ない、手に負えない状態のまま、この先なお数十年、もしかすると数百年以上土壌を汚染し続けると言われる原発事故。その数倍とも数十倍、いや、それ以上とも言われる震災関連原発事故と言われる福島第一原発のメルトスルー事故。はっきり言って、これが無ければ、被災地の復興・復旧の未来図は、もうすでに描き始められていたのではないでしょうか。

多くの災害を乗り越えて、人類は新しい未来を拓いてきました。それが出来たのは「人」が「安全に生きられる環境」までもが失われることは無かったからです。しかし今、日本は、日本だけでなく北半球、世界は「安全に生きられる環境」までも失わせる危険を持つ核エネルギーに依存し続けて来ました。

もう手遅れなのかも知れない。まだ打てる手立てがあるかも知れない。分からないけれど、今、選び取るべき手立ては何であるのかを、全ての人が自己利益ではなく世界規模・人類規模で考えないとならないと思うんです。

 


行方不明

新年早々に関東で小学女児の行方不明事件のニュースに心を痛めました。無事保護のニュースを早朝に聞いて、ホッとしたのも束の間、大阪でも中学女子が行方不明との公開情報が発信されていると聞き、改めて無事を願います。

日本では老若男女合わせて年間1万人の行方不明者がいるそうです。事件・事故・自己選択と事由は様々でしょうが、1年間に1万人もの人間の所在が分からなくなっているという現実に驚きます。ちなみにアメリカでは年間に10万人の行方不明者がいるとか…。1つの中規模市の人間が突然いなくなってしまうという人数です。もちろん、行方不明者は「消えてなくなる」わけではないのでどこか別の地域へ移動しただけと考えるべきですが、その数に驚きます。

1987年にアメリカで発生した乳児拉致事件の被害女性が約23年ぶりに実の親元に帰る事が出来たというニュースを2011年に聞いた時も驚きました。とにかく、無事に帰り着いた「家」で、本当の両親と一緒に新しい人生を歩み始められる事は本人にとっても両親にとっても言葉に表せないほどの喜びだったと思います。

子を持つ親の一人として、事件・事故はもっての他ですが、たとえ自己選択であったとしても、在るべき関係を結んでいた親子が引き裂かれるという出来事は、とても悲しく、辛く、苦しいことだと感じます。

明るく元気に楽しく伸び伸びと、命の日々を健やかに歩んで欲しいと願うのは、正しい関係にある子を持つ親の当然の願いなのではないでしょうか?

失われた・奪われた関係が回復される事を、切実に祈ります。

 


選挙

東京都知事選挙に総理経験者2名がタッグを組んで出馬とのニュース。う~ん、東京都民で無い事(投票権が無い事)が残念!

国政選挙が3年間もない今、日本の首都・東京の都知事選というのは降って湧いた一大政治イベントだと感じるてるのは僕だけじゃないだろうと思います。さてさて、どんな裁定を東京都民の皆さんが下すのか、なんとも興味津々です。

公正であるなら、選挙という制度はとても良い社会ルールだと思います。いびつな選挙方法の改定で1票の格差なんてのが生じてしまっていますが、本来、一人1票を投票し、最も多数を集めた候補者(定数)が有権者によって選ばれた代表となるというのは、とても分かりやすいリーダーの決め方だし、そのように有権者多数の選択は「民意」という旗印にもなるからです。

でも、最近の選挙の投票率の低さたるや、選ばれた方々も到底「民意の代弁者」とは呼べないレベルですねぇ。「日本の選挙の投票率は毎回70%以上!」これくらいの関心があれば良いんですけど、実際は50%台というのが多いようで…。

僕は参与出来る選挙には毎回必ず投票します。オカルト的には不正操作が起こってると言われている期日前投票であってでも参加しています。参加出来ない他の地方自治体選挙でも、特に関心がある地域の選挙は特に覚え、祈りの内に思いを参加しています。

東京都知事選の有権者の方々が、日本の首都に暮らす特別な立場の責任と権利をもって、良き都知事を選ばれる事をお祈りしています。

テモテへの手紙第一2章1節『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい』

 


成人式

「人に成る」ってネーミングには抵抗を感じますが、ま「一人前の社会人に成る(一人前と認められる)」という意味でしょうか…。

結婚式も同様ですが、成人式も「スタートライン」という認識が必要ですね。結婚したら夫婦に「成る」のではなく、そこから夫婦として歩み出し、自分達の人生を創り上げ続けて行くのですから「完成」という時は無いんです。「成人」も20歳以上の者という意味では完成(到達)してますけど、一人の人間としてどうや?という観点でいえば「成り続けて行く日々」を歩んでるわけで、それは責任と義務、一社会人としての自覚が問われる日々だと思います。

義務と責任を担う事無く権利と自由を要求するのは「子ども」の特権です。でもそれは社会を形成する力とはなりません。だから「子ども」なんです。「おとな」は「子ども」を含め、自分が生きている社会を建て上げて行く責任と義務を果たすことで、自由と権利についても参与出来る立ち位置を得ます。

「成人式でおとなに成った」という意識ではなく「自由と権利を得るための責任と義務を担って歩む日々が始まった」という意識を、成人式を迎えるみんなが抱けるといいなぁと思います。

 


歯科通い

かれこれ5年間歯医者に通っています。最初は長年だましだましで保持し続けていた「親知らず」の治療でした。

「親知らず」2本の抜歯に合わせてこの際完全治療をと希望したところ、まあ、次から次に悪い箇所が見つかりまして、痛みを自覚している部分だけでなく神経を抜いていた歯の虫歯が無痛のまま進行しているものも見つかったり、「親知らず」に浸食されていた奥歯を抜歯したりと、ホントに長く通いました。

ようやく昨年末に最後の治療が終わり、数年ぶりに全ての歯(義歯含む)がキレイにそろいました。やっぱり在るべき所に在るべき歯がそろっていると口内舌触りが心地よいものですね。

長期の歯医者通いの中で、信仰生活との類似点・聖書の福音との共通点も多々見出した事は嬉しいオマケでした。

初期の痛みは常に持続しない事が多いので、ついつい「痛くなくなったから大丈夫」と放置しがちですけど、それは大きな間違いですね。虫歯は自然治癒する病ではないので、大きな痛みが無いからとそのまま放置して生活しているとそれはどんどん進行し、歯根までダメにしてしまうものです。最初の自覚した僅かな痛みの時期に治療を開始する事。それが大事です。

また、気づかない内に蝕まれている歯があるという事。歯医者さんに診てもらって初めて虫歯と知る歯もあります。歯医者に通ってるからこそ、早期に発見出来るような虫歯です。

罪は人の心を、命を蝕みます。自覚・無自覚を問わず、それは在るべき姿を失わせてしまいます。治療が必要なんですね。

歯科治療の際には思わぬ「激痛」も伴う事があります。歯根治療で針のような棒を歯の穴に挿し込んでゴリゴリする時なんか、ある瞬間に「フガー!」とうなる激痛もあります。でも、それは薬を歯根に浸み渡らせるために必要な痛みなんですね。

罪の治療にも「痛み」が伴う時が多々あります。認めたくない自分の「罪」、過ち、選ばなければならない決断、謝罪、悔い改め…。でも、その先に「在るべき姿への回復の喜び」があるんです。

ヘブル12:4『あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません』

罪の治療も早いに越した事はないです。傷も浅くてすみます。取り返しのつかない死と滅びに飲み込まれる前に、唯一の名医イエスさまのもとに行きましょう。そこにとどまる生活を続ける時、再び蝕み始める「罪」に対しても早期対策が出来るからです。

ちなみに、今日、最終確認のつもりで行った今年最初の歯科診療で、また1本、新しく虫歯が見つかりました…


のど元過ぎれば…

「のど元過ぎれば熱さを忘れる」。苦しいことも過ぎてしまえば、その苦しさや恩も簡単に忘れてしまうということですが、ま、ポジティブに考えるなら「ひと時の苦労なんだから…」と前向きにとらえる事も出来ますかねぇ。

人というのは自分が辛い時にはその苦しみがよく分かるぶん、その時や回復した「直後」は同じ苦しみを持つ人の立場に立って考える事が出来るものだと思います。

我が家は現在小学生3児と未就学2児の育児世代なので「子育て環境」の社会不備がよく分かります。だから今はそのような社会不備等の改善について切実に願い、また、改善への取り組みの発信をしています。

でも、育児環境を卒業された諸先輩方の多くからはお叱りや批判を受ける事も度々です。「みんなやってきた事なんだから…」「わずか数年の事なんだから…」「私たちだって苦労したけど結局なんとかなるものよ…」などなど。う~ん、のど元過ぎればなんとやらって事かなぁ。

「我が身に起こっている苦しみの渦中」になければ所詮は他人事。それでも良いと思います。人の苦しみなんて、同じ苦しみを経験した事がなければ「理解しろ」というほうが理不尽な要求ですから。でも、我が身も体験した苦しみであるなら「のど元過ぎれば」であってはならないと思うんです。

ルカ22: 32『しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』

今は育児世代の声を発信してます。でも、自分はその世代を卒業しても後輩育児者の環境改善のために協働していきたいと今は心に願っています。

ところで「低所得層」の悩みと苦しみを卒業する日はあるのかなぁ…。まあ、それについては生涯留年もまた良し!と信じつつ(^O^)

 


予定

日々の生活には予定を立てて活動するのが大多数かと思います。それがたとえ「1日中寝る」とか「何もしないでのんびり過ごす」でも自分がその日一日をどのように過ごすかという計画、予定であるわけです。

僕も締切が迫っている文書の作成や、期日の迫っている諸業務など、一日単位・週単位で予定を組んで取り掛かるんですが、突然の来客や電話対応に時間を割く事になったりもします。そうすると予定していた「余裕ある計画」はいつの間にか「切羽詰まった作業」になり、睡眠時間を削らざるを得なくなってしまうということが度々起きます。

加えて僕は現在、5人の子を持つ父としての生活もありますので、子ども達の突然の病気やケガ等が起こると、綿密に立てているこの「予定」がものの見事に崩れ去っていく日々を過ごしています。

生来、僕は予定通りに事が運ぶと安心・平安で、予定が崩れるとパニックになってしまう傾向をもっていますので、このように予定が狂うとものすごくストレスを抱えるわけです。

対して妻は「予定は未定が当たり前」な人なので、予定は有って無きが如し、予定が狂う事も予定の内という御人です。たまに腹立たしくさえ感じますが、でも、彼女の姿勢こそが「明るく元気に楽しく伸び伸び生きる姿」なんだろうなと見習います。

箴言19章21節『人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る』

最初からこの平安をもって予定を組むか、さんざんパニくった末に辿り着いて平安を得て予定を組み直すのかの違いはありますが、まあ、我が家は夫婦で同じ信仰に在る確信で祈れる関係が与えられていることに感謝です。

今日も園からの呼び出しが来ました。週末に向けての業務が詰まっていますが、ま、成るように成るからやることをやろうと、予定変更を余儀なくされた午後でした…

 


タイヤ交換

最近、車を運転しているとなんだかハンドルが微妙にフラフラしてる。嫌な予感…。以前も同じような症状が出た事があったんで恐る恐るタイヤを確認してみると2本は溝がほとんど無くなっててその内の1本からはワイヤーが飛び出していました。早速、かかりつけの自動車工場に連絡して、両日中の交換を予約しました。

車って高い機械ですよねぇ。とても気軽に買換え出来る代物ではありません。でも、1つ1つの部品・パーツだけで考えれば、そりゃ家計には響きますがある程度は即決で交換可能なものです。タイヤだって1本1万円とかの新品だとなかなかやり繰りが難しいですが、今回も新古タイヤを融通していただくことが出来るので我が家の家計状況でも即時対応出来そうです。

車というのは、多少の懐の痛みを惜しんで整備を怠ると取り返しのつかない大事故、故障につながってしまうものです。もっと大きな出費がかさむだけでなく、人の命にも関わる事故を引き起こしてしまう可能性があります。

小さな反省・ちょっとした自戒で済む内に人生も整備しておけば、人生の大事故は避けられるんだろうなぁ、って思いつつ。

 


先人の知恵に学ぶ

今日の学童保育は餅つき給食でした。…というより、数年前からは杵と臼での本格餅つきはやめて餅つき機で作ってますんで「つきたて餅給食」と言うべきかも…。

つきたてのお餅ってのはホントに美味しいですねぇ。つきたて餅を大根おろしに醤油をかけたお椀に、アツアツつきたての餅をからめてズルズルいただくというのが僕の定番ですが、皆さんはいかがでしょうか?

さて、作って食べて終わりってわけにはいきません。片付けという腹ごなしが待っています。

餅つき機・餅切り器の導入後に経験したのは「餅がついた机や機械をキレイにするのは大変だ!」ってこと。スポンジやタワシでゴシゴシこそいでもなかなか取れない。むしろ、被害は拡大で全然キレイに洗えない。洗い終える頃には腕力が2割増しになったかというくらいに腕がパンパンになっていました。

何度目かの餅つき後、そんな大変な洗い方をしている僕に、とある方からの助言がありました。「ウチのばあちゃんはそのまま半日ほったらかしにしてますよ」。?なんで?食べ終わったらすぐに原状復帰、洗い物ってのが当然のルールでしょ?そんな疑念を抱きつつ、そんなん言うならほったらかしだ!って試したら、まあ、3~4時間後には機器や机にこびりついてたお餅がパリパリに乾いてて、面白いようにパキパキって取れるじゃないですか(゜o゜)

まるで新品のように(というのは言い過ぎですが)、パックをはぎ取った美顔のように、餅つき機も餅きり器も、全パーツ1皮むけてスッキリキレイ。で、その後通常通りに洗っておしまい。こんな簡単な方法があったなんて…。以来、毎年、この「乾燥剥がし法」を取り入れたおかげで、餅つき後の疲労は激減しました。

先人の知恵を疑って、試しもしなかったら、きっと不毛な洗いものを続けてたんだろうなって思うわけです。特に僕は自分で発見したものを優先して人の真似をするのが嫌いって傾向があるもので。

自分を知者だと思って、他者の知恵に頼ろうとしない傲慢な姿勢では、自分の知恵も増さないし、無駄な疲れを招くだけなんだなぁ、なんて思いながら、今回も「乾燥剥がし法」を楽しみます。

 


日曜日

1週間の始まりは日曜日。カレンダーでは月曜始まりのものも増えてますけど、1週間の数え方としては日曜始まりってのがホントだろうなぁって思います。

1週7日の西洋歴が明治以降の日本社会にも国際標準として定着しましたが、西暦はイエス・キリストの誕生年を紀元1年とする基準で決まったもので(その後の研究で実際の誕生年ではないと言われてますが…)、そうしたキリスト教的意味が西暦・7曜周期の考えにはあるわけです。

で、どうして日曜始まりかというと、金曜日の午後に十字架にかかって死なれたイエス様が三日目の朝、すなわち日曜日の朝に「復活された」ことに由来します。

という事で「新しいいのちへの始まりの日」として、毎週日曜日の朝、教会では復活のキリストのいのちを歩むことを覚えて礼拝がささげられてるわけで、「お休みでちょうどいいから日曜日に礼拝しよう!」ではなく「礼拝の日だから日曜日はお仕事をお休みにしよう!」というのが西暦7曜の元々の考え方なわけです。

年の変わる元旦に仕切り直した旧年の反省も、わずか数日でうやむやになって、また1年間同じ反省の繰り返しになりかねないこの時期ですが、仕切り直しを毎週日曜日、キリストの復活を記念する朝に定めて歩めば、ダラダラと反省の日々を引きずらないで済むかと。

毎週毎週、復活のいのちを覚えて仕切り直せる日曜日。今週も、明るく元気に楽しく伸び伸びと歩き出そう!


流れ星

今年も新年名物「しぶんぎ座流星群」を楽しみにしてます。とは言え、天気予報は雨時々くもりなんですが…。

中学生頃に流れ星というのが宇宙空間の「ゴミ(塵)」が大気圏の摩擦で燃える現象に過ぎないって理解するまで、てっきり本当に星々の寿命が尽きて空から落ちてるんだって思ってました。なんにせよ、流れ星ってやっぱり「特別な現象」な気がして好きですねぇ。

「流れ星に向かって三回願い事をいうと願いがかなう」なんて言い伝えも昔からありますが、ま、ただの「燃える宇宙のゴミ」にそんな力はないワケですけど、あの突然訪れる一瞬の出来事に直面して即座に三回も願いを言えるというのは凄い思い入れだと思います。

家事やら育児やらお仕事やら、もちろん思いはそれぞれに強いんですけど、何を「一心」に思っているだろうか?なんて考えながら、今夜も神さまが与えられた素敵な自然現象を観察しようと思います。

 


二兎を追うもの…

「やりたいこと」「やるべきこと」「やれること」。昨年はこの三つのバランスが悪かったなぁって思います。

この三つのバランスが悪いと、結局、全体的に充実感が無く、中途半端な思いのままで日々を過ごしてしまうんですよねぇ。「やりたいこと」を優先したいのにやらなきゃいけない「やるべきこと」に追われて、気分が乗らないままでやるから効率も悪くなって「やれること」も手が回らないという悪循環。

かといって、やりたいことを諦めてちゃあ楽しい人生は建て上げられないし、一番良いのは「やりたいこと」と「やるべきこと」が一致してて、それに取り組める「やれる状態(時間や気持ちなど)」が整うこと。そんな都合の良い事なんてありゃせんがね、と、結局何かを諦めたり手放したり、半端に片付けてしまったり…。

んでも、そんな都合の良い道があるんだって元旦早々御言葉が与えられました。

伝道7:18『一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している』

やった!二兎を追う者にダブルゲットの約束だ!ということで、2014年は無駄に悶々と考えて何もかんもが半端にならないように、二足のわらじどころか百足を目指して、楽しみながら毎日を建て上げて行こうと思いを新たにしました。

伝道11:6『朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない』

 

(裕子牧師のひとことツッコミ…ムカデ生活?)

 


大晦日

2013年も終わり、2014年という新しい年が始まります。

1年365日。たまに366日。1日1ページと考えて、全てのページがビッチリとうまってるかというと、ページが足りない日もありましたがほとんどが白紙だったなぁって感じます。ま、別に毎日毎日埋め尽くせるだけの出来事がなくって良かったとも思いますし、なんだか無駄に過ごした時間が多かったかなぁって反省もしたり。

毎年、新しい年の初めに一年の抱負や目標、心機一転の取り組みを考えますが、大体1~2ケ月で挫折する事が多く、そうすると残りの10ヶ月は取り組みまないままで過ぎてしまう、なんて経験をしてきました。

聖書的な生活の区切りは毎週日曜日。七日毎の毎週日曜日を区切りとすれば仕切り直しも七日毎なんで、毎週が心機一転日から始められるかなと。という事で、新しい年の取り組みは、年に一度の一念発起ではなく、毎週日曜日の仕切り直しを生活習慣にしよう、なんて考えつつ歩み出します。


そんなもんか…

冬休みに入って子ども達が家で日中を過ごす時間が多いんですが、まあ親に言わせればダラダラしてるように見えるもんで、ついつい小言も連発しちゃいます。

近所の友達も数人が遊びに来てるんですが、ふと見ると、2~3人は携帯ゲームで遊んでて、何人かはそれを周りで覗き込んでて、何人かはマンガを読んでて…。「そんなんじゃ一緒に遊んでる意味が無い!社会性が育たない!外で遊んで来い!」なんて言おうかとも思いましたがとりあえず何も言わずに立ち去りました。しばらくすると外から声が聞こえるので見てみると、元気にボール遊びをやってました。

そういや、自分が子どもの頃もそんなもんだったなぁって思い出した次第です。ついつい理屈頭になっちゃって、大人が考える子どもの健全な成長理論を子どもに押し付けようとしてしまう。子どもは子どもで、マンガを読んでいようが個別のゲームをやっていようが、一緒に居る「共有時間・共有空間」を楽しんでるのに、大人が考える共同作業以外は「一緒に遊んでるとは認めない!」って。大人に指示され無くても、子ども達は自分達の時間を十分に意味のある、価値のある時間として過ごしてるんだから、親がとやかく言う必要は無いんだなぁ。

とはいえ、冬休み最終日にまとめて宿題やる羽目にだけはならないように、そのへんの小言大言は日々連呼ですけどね。


大掃除

年末という事で、今年最後の日曜日の礼拝後に教会の皆さんで会堂の大掃除をしました。

私たちの教会は有志が週交代で掃除をしてるんですが、広さに対して人手も少ないため普段の掃除で手が回っていない部分を定期的に総出で特に重点清掃します。

当然ながら、毎週手が届いてる部分とそうでない部分では汚れ方も埃の層の厚みも違います。前回、あんなにピカピカに磨き上げたはずのガラスも、今回掃除してみるとまるで曇りガラスのようになっていたんだと改めて気づきます。

生きてる限り、一度きれいに磨かれた透明ガラスのような心も、いつの間にか曇りガラスのように薄汚れて、神さまの祝福と恵みの世界を見えなくしてしまってるんだろうなって思わされます。心の掃除は「定期的」ではなく「毎日」しなきゃなぁ…

 


ただしく治める

昨夜、洗濯ものを干しながら久し振りに風の谷のナウシカを子ども達と一緒に見ました。

月並みな感想ですが、やっぱり宮崎監督の社会への警鐘を強く感じる作品ですね。特に、福島第一原発事故を目の当たりにした世代となった今、せめてこの国の在り方くらいは皆でしっかりと考えないといけないだろうなって感じました。

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」創世記1:28 

 神さまはこの世界を人が生きる場として与えられました。その地を従えてすべての生き物を支配せよと与えられました。でもそれは人が好き勝手にやりたい放題やって良いということではなく「ただしく治める」ということです。

今の世界の、日本の、地域社会の状況はどうだろうか?自分の夫婦関係は、親子関係は、交友関係はどうだろうか?自分自身はどうだろうか?ただしく治めるって難しいことだけど、せめて言い訳や屁理屈で自分のやってる正しくない事を正当化するような姿勢だけは日々自戒して改めないとなって感じてます。

  


自己成長

昔と比べてかなり成長したかも。何が?愛する妻との関係です。

僕は感性で生きてる割に結構理屈で考えるタイプなんです。で、自己反省というか、以前の自分と今の自分は成長してるか、それとも衰退してるかなんて時々考えます。今回は「成長したな」って思った一部分。

結婚当初、お風呂に入って体を洗おうと思ったら石鹸が無い。で、風呂の中から叫ぶわけです。「石鹸が無いやん!(怒)」。そんな事が度々あって、少し成長。怒って叫ばないようになりました。だって、そんな事で怒るのって器が小さいなって思ったから。お風呂に入ってシャワーを浴びた後に石鹸が無いという驚くべき事実と虚しさに怒りをぶつけない俺って、なんて立派なんだろうと自己評価です。

でも、よくよく考えれば妻は別に僕の入浴準備係では無いわけで、んなもん、入る前に自分で確認して無けりゃ新しいのを持って入れば良いだけと気づくまでにさらに数年。ますます成長した自分に拍手喝采です。

もともと、自分が風呂に入った時に、自分で石鹸が最後となっても「足りて良かった」で終わってたんで、恐らく僕の後に妻が入った時に無石鹸状態だったことも多々あっただろうと気づくのに数年。以降は自分で石鹸ラストか残り少なくなった場合には風呂上りに妻に「石鹸終わったから持って入ってね」と一声かける思いやり爆発の素晴らしい夫に成長しました。

でも待てよ。自分でラスト、もしくはもう残り少なくなってるんだったら次の人のために新しいのを自分が出しとけば良いじゃんって気づいたのは結婚9年目の事でした。

こんな当たり前の、当然のエチケットが身につくまで9年もかかる自分を知って自己反省。しかも、数ヵ月くらいは「新しい石鹸出してくれててありがとう!」のひと言もないのか!なんて心の中で不満をつぶやいたりしてたわけで、自然体で次の人(妻)の事を考えて、別に誰かに評価されるためでなく、報酬を得るためでなく、やるべき事をやっただけと考えられるようになったのは結婚10年以上経ってからでした。

でも、そんな自分の成長を、自分が喜べるってのが自己成長の醍醐味かな。

『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』マタイによる福音書7章12節

 

 


忘年会

世の中、クリスマス前夜「イブ」までがクリスマスモードで、記念日である25日のクリスマスには一気に年末モードになってますね。飾り付けもクリスマス半分、正月半分だし、日付が変わる頃には今年も一斉に正月モードの飾り付けになるんでしょうね。

この時期、本格的な「忘年会シーズン」に突入して、多くの方々が外呑み・家呑み問わずに過ぎゆく一年と新しい一年に思いを馳せておられるのでしょう。

まあ、言葉の問題かと思いますが、僕は個人的に「忘年会」には否定的です。だって、せっかく歩んできた一年を「忘れるため」の会って、すごく自己否定な気がするからです。聖書には「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな」とか「試練にあったのは私にとって良い事でした」とか、とにかく、歩んできた道を「忘れ」たり「否定」したりせずに、その歩みを忘れずに、成功も失敗も、幸も不幸も、その全ての歩みの延長に在る自分をしっかりと見つめるように勧められているわけです。

「反省とは、その失敗を忘れてしまわないこと」なのです。今年の年末は「忘年会」ではなく「覚年会」を開かれてはいかがですか?


人は人、自分は自分

最初の神学校を中退して一般職に就いていた青年時代、ま、色々と身の振り方と言うか人間関係とかに悩んでた時期がありました。そんな時、当時高校生だった男の子から言われたのが「かっちゃん、人は人、自分は自分やん」という一言。

年齢(学年)上下関係の厳しい封建社会な少年時代を過ごしていた僕は、基本、「年下の言う事なんか意に介さない」って姿勢だったんだけど、この一言はめちゃくちゃ心に残りました。

誰かや何かを「変えよう」というのは、根本には「自分は変わりたくないけど人や周りには変わって欲しい」というわがままな欲望・願望があるわけで、それがうまくいかない=自分の思い通りにならないことで人を裁いたり、自分を責めたりっていう悶々とした時間を作りだしちゃうんですね。

彼のひと言でピンときたのが「あなたはわたしに従いなさい」っていうイエスさまの言葉。人を評価したり、人からの評価に一喜一憂しない道を歩いてるんだったって思いだしたら、なんか急に肩の荷が下りたというか自然体で「自分」を喜んで楽しめるようになって、ああ、これだったって安心したわけです。

人は人、自分は自分。一見冷たい自己中心な言葉にも感じますが、人や周りを変えようとかに思いを向けるよりも、まずは何より自分が今日の一日をどうするかってのが、やっぱり一番大事なことなんじゃないかと僕は思って生きています。


クリぼっち?

色んな造語が日々生みだされてるけど今日はまた耳新しい造語「クリぼっち」なるものを聞きました。

知ってる人は知っている、知らない人は別に覚える必要もないでしょうが、僕らの世代では「シングルベル」って言ってた状態の事だそうで。

広義ではクリスマスの夜を独りぼっちで過ごすこと、狭義ではクリスマスの夜を恋愛対象者と二人ぼっちで一緒に過ごす予定が無いことらしいです。「なんやそれ~」って思いますが、ま、僕もそういや高校生くらいの時には同じようなこと考えてたなぁ。

恋愛対象者と二人っきりで過ごすのか、それとも多人数の友人や知人と過ごすのかは別にどうでもいいことですけど、どこに居ても、誰と居ても「自分の居場所が無い」「孤独だ」「自分なんか価値がない存在だ」なんて自己評価しちゃうのは違うよってのが「クリスマス」の意味。

イエスさまがお生まれになる時、天使がこう言いました。「この方の名はインマヌエルと呼ばれます(神が共におられるという意味)」。

恋人と二人っきりだろうが、何十人、何百人と一緒にいようが「独りぼっち」と感じる事だってあるし、自分ひとりだけでも「一人ぼっちじゃない」って感じられる事だってある。僕の場合、1990年のクリスマスにイエスさまを本当に知って以来、一度も「独りぼっち」を感じる事が無くなったし、実際に一人で過ごすクリスマスって無くなったかなぁ。

なんにせよ、本当のクリスマスを知って味わい感じたいなら、お近くのキリスト教会にお出かけ下さいね。


新天地への旅

昔、ヨーロッパに住むある貧しい父子が新天地アメリカへの移住を決意し、全財産をはたいて大きな客船の一番安いチケットを手に入れました。

父親は息子に言いました。「アメリカに着けばきっといい仕事が見つかる。そうすればお金だって手に入る。そしたら腹いっぱい飯を食わせてやれるが今は船に乗るためにお金を全部使っちまったから食べ物はこのパン一個だけしかない。我慢できるな?」息子は父親の言葉に強くうなづきました。

客船に乗ると二人は最下層の大客倉奥の隅に隠れるように横に寝ました。少しでも体力を消費しないように二人は数日間をそこで過ごしました。

やがて他の客が衰弱しきって動けなくなっている二人に気づき、すぐに船医を呼んでくれたおかげで、父子は一命をとりとめました。

二人の事を船医から聞いた船長が父親に尋ねました。「なぜあなた達はこんなに衰弱するまであんな所にうずくまっていたのですか?」父親は僅かな食料しかもっていない事を船長に告げました。それを聞いて船長はビックリしてこう言いました。「乗船券には全てそれぞれの等級ごとに船内のレストランで自由に食事が出来ると書いてあるはずです。あなたはそれを読まなかったのですか!」。そしてこう続けました。「自分だけならまだしも、あなたはこんな小さな子どもにまで受けなくて良い苦しみを味わわせてしまった事を反省すべきです」「さあ、今からでも遅くありませんから、新天地に向かうこの客船の旅を存分に楽しんで下さい」

※子どもの頃に聞いた例話です。最近思い出したもので(^^)


2013年クリスマス子ども大会でのショートメッセージ

 もうすぐクリスマスです。

クリスマスのお祝いは世界中で行われています。

クリスマスって何の日か知っていますか?

そう。イエスさまのお誕生を記念する日です。

みんなはお誕生日のお祝いにどんな言葉をかけてもらいますか?

そうですね。「お誕生日おめでとう!」「生まれて来た日を覚えてお祝いしましょう!」と御馳走やプレゼントをいただいたりもするでしょう。

では、イエス・キリストのお誕生を記念するクリスマスにはどんな挨拶をしますか?そうですね。「メリークリスマス!」という言葉での挨拶をしますね。

でも、この「メリークリスマス」という言葉は「イエスさま、お誕生日おめでとう!」という意味ではなく、「イエスさま、お生まれ下さってありがとうございます!」という意味なんです。

教会には必ず十字架があります。偽物の教会は十字架をおいていません。

なんで教会には十字架があるんでしょうか?

十字架は昔、悪い事をした人を死刑にするための道具でした。ちょっと悪い事をした人ではなく、人殺しや悪い泥棒とか、とても悪い事をした人を捕まえて、裁判をして、死刑にするための道具でした。

イエスさまはこの十字架につけられて殺されました。死刑になりました。人殺しでも無く、大泥棒でも無く、大嘘吐きでもないどころか、何一つ悪い事なんかしたことのない方でした。なのに、どうして十字架で死刑になったのでしょうか?

 

昔、ある男の子が近所のお店にお金も持たずに入りました。お店の中にあるお菓子を、その男の子はお店の人にばれないようにポケットに入れてしまいました。そして、そのまま、お店から出てそのお菓子を食べようとした時、後ろからお店のおじさんが走ってきて、その男の子を捕まえたのです。そして大声で怒鳴りました。「泥棒だ!」

その男の子が住んでいた町では泥棒は皆の前で裸にされて、とても痛い、とがったムチで100回叩かれる事が決められていました。その後、盗んだものの100倍のお金を払うまで、とても苦しい、辛い仕事をさせられることになっていました。

だからほとんどの泥棒は、捕まると、二度と自由になれないままで死んでしまっていました。

男の子は泣き叫んで助けて欲しいと言いましたがお店のおじさんは許してくれません。とうとう、町の広場にその子は連れだされて、着ている服を脱がされそうになりました。

その時、一人の男の人がかけよってこう叫びました。「その男の子を赦してくれませんか?」

いったい誰がそんな事を言っているのかとみんなが注目しました。そこに立っているのはその町の町長さんでした。なんと、その男の子は町長さんの子どもだったのです。

でも、お店のおじさんは町長さんが嫌いでした。だから笑ってこう言いました。「あんたの息子だろうがなんだろうが関係無い!この町の決まりはちゃんと守らないといけないだろう?それとも、町長であるあんたが町の決まりを破るってのかい?」

みんな、町長さんがどんな言葉を返すかをじっと見つめました。「その子の代わりに、私が罰を受ける事で許してもらえないだろうか?」お店のおじさんは驚きました。町のみんなも驚きました。

でも、すぐにおじさんはニヤニヤ笑いながら「いいですよ。それならあんたがこの子の代わりに罰を受けて下さいな」と言いました。

町長さんはみんなの前で裸にされました。ムチで叩く処刑人の前に引き出され背中が破れて血だらけになって倒れるまでムチ打たれました。その後、数週間、とてもとても苦しくて辛い仕事をさせられましたが、男の子が盗んだお菓子の100倍の代金を支払って解放されました。

罰を受ける必要の無い町長さん。でも、愛する自分の子どもがこんな苦しい目にあって死んでしまう事は絶対にさせたくなかったんです。

男の子は涙を流して町長さんに謝りました。「お父さんごめんなさい」と。町長さんはやさしく、力強く息子を抱きしめると「もう、悪い事はしてはいけないよ」と言いました。

 

十字架は悪い事をした人の死刑のための道具です。その十字架に悪い事なんかしていないイエスさまはつけられて死なれました。それは、僕達私達の罪、本当の神さまから離れてしまって、お約束を破ってウソをついたり、いじわるをしたり、わがままを言ったり、友達を傷つけたり、自分勝手なことをしたりすることだけでなく、心の中で考えてる悪い思い、そんな「罪」を代わりに受けるためでした。

そして、イエスさまがお生まれになったのは、その「罪」の「罰」をみんなの代わりに十字架で受けることで、みんなが「罪の罰」を受けて死んでしまわないためです。

だから、教会には十字架があります。本当なら僕たち私たちが自分の「罪」のためにつけられなければならなかった「死の十字架」に、イエスさまが代わりについて下さった事を忘れないためです。

だからクリスマスにはイエスさまに「お誕生日おめでとう」ではなく「僕たち私たちの罪が赦されるために、代わりに十字架で罰を受けて下さるためにこの世界にお生まれ下さってありがとうございます」という意味を込めて「メリークリスマス」とあいさつをするのです。

イエスさまは十字架で死なれたあと、三日間、死の世界に下りましたが、三日目の朝に復活されました。死の世界が、「もう、これ以上のいのちを払ってもらう必要はありません」って事を約束したからです。

世界中の、全ての人に神さまが与えて下さった唯一のプレゼント。それが、イエスさまを信じる人は誰でも、罪から救われるという約束なのです。

 

今日のこのお話しを覚えて、「神さま、ありがとうございます」の気持ちをもって本当のクリスマスを喜んで過ごしましょう!


立ち上がって歩きだせば、違う景色が見えてくるもんだよ

ある日突然、座り込んじゃう時があって、それが悲しみとか悩みとか疲れとか、とにかく歩けなくなっちゃって、しゃがみ込んじゃうわけ。

で、もう歩きたくなくなって、なんでこんな事になったんだろうって考えて、色んな原因を探し始めて、あれが原因だ、これが原因だって考えると、腹が立ってきたり、自分をこんな目に遭わせた相手に怒りを燃やしたり、どうやって恨みを晴らそうかって、どうすれば自分をこんな目に遭わせた相手を最大限に苦しませて謝らせることが出来るかなんて考えだしたり。

自分は成功出来る力があるのに、それをダメにしてしまうようなヤツがいるからうまくいかないんだって文句をつぶやいて、ずっとずっとつぶやいて、もう、景色はその一点しか見えなくて、それ以外の世界は無いように思いこんじゃってて、これを解決しないと前進なんか出来やしないって座り込んで…

だから、立ち上がって歩こうとしてなけりゃ違う景色は見えないもんで、目を離せないんじゃなくって離そうとしてない視点を変えて、とにかくそれは後でも見れるんだからまずは立ち上がって歩きだせば、自分の周りの景色って違って見えて来るもんだし、歩き出せば別の景色が見えて来るし、どうしても気になるなら、あっちこっち見て回ったあとに戻って、もう一度それを見てみればいいんだよ。

案外それって、自分にとってそんなに大事に握りしめて無くってもよかった石ころだと気づくかもよ。


三人の農夫

三人の農夫がいました。

ある日、神さまが三人にそれぞれ特別な種を下さいました。その種は30倍・60倍・100倍の実を結ぶという、とても素晴らしい種でした。

一人は喜んで家に帰ると、すぐに自分の家の庭先に種を蒔きました。「さあ、これでいつまでも楽に暮らせるぞ」と安心しました。でも、いつまで待ってても種は育ちませんでした。堅い地面に適当に投げ捨てられただけの種は、そのまま腐ってしまったのです。

一人は喜んで家に帰ると特別な種を瓶の中に入れて飾りました。「この種さえあれば、もう何もしなくてもいつまでも食べ物に困らないんだ」とウキウキしました。でも、瓶の中の種は種のまま芽を出す事はありませんでした。それでもこの農夫は神さまが下さった種だから必ず芽を出し実を結び、自分を楽にしてくれるといつまでも信じて、30倍・60倍・100倍の実を結ぶ特別な種を、大切に大切に飾り続けました。

一人はその特別な種を受け取ると神さまに尋ねました。「この種を育てるにはどうしたら良いでしょうか?」神さまはその種の育て方を教えて下さいました。この農夫は神さまの教えて下さる通りに土地を耕し、土づくりをしました。ひとつひとつの手順を神さまに聞きました。その都度、神さまは必要な働きを教えて下さり、手伝って下さいました。中にはとても疲れる作業もありました。何度も何度も同じ事を繰り返さないとならない作業もありました。でも農夫はいつも一緒におられる神さまに聞き、その教えに従ってこの種を蒔き育てました。

やがて種は芽を出し、葉を茂らせ、花を咲かせ、多くの実を結びました。その実の種からまた次の実りが生まれました。


 

 『平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです』

(マタイによる福音書5章9節)

世界の平和を祈り・願い・活動されている牧師先生やクリスチャンの方々は多くいます。すごいなぁって思います。

僕は自分と家族の平和くらいにしか手を伸ばせません。それでも常に平和をつくれているかと問えば、到底「バッチリ!」とは言えません。

でも、平和をつくろう=家族で過ごす日々を楽しくしたいと意識をもって生きている時、けっこう「平和」を味わえてます。小さな平和にも大きな幸いが与えられるもんなんだなぁ(^^)